【発題 3】神様によって立たせてもらう 三島 亮
1.学校紹介
基督教独立学園高等学校から参りました三島亮と申します。まず、本校の簡単な紹介から始めさせていただきます。本校は山形県西置賜郡小国町という、冬には積雪が3メートルを超える豪雪地に建つ男女共学、普通科の全寮制高等学校です。内村鑑三の呼びかけに応えた鈴木弼すけよし美が創設し、今年で創立71年目を迎えました。
内村鑑三の「読むべきものは聖書、学ぶべきものは天然、為すべきことは労働」この三本柱を教育の指針としています。
2.何故、今この問いに向き合わされたのか
私はこの春から急な学内人事により教頭という、どう考えても負いきれないような立場を担うことになりました。昨年度末から様々な課題の前に立たされ、その様な中で教職員の中には不満と不安が募り、また教職員間の関係性の中には不信感が生まれていると感じ取っていました。
疲れ切った教職員の姿。それでも新しい年度は始まり、私自身何も分からない中で目の前のことで精一杯の毎日を送っています。焦る気持ち。そんな時に飛び込んできたのが安積先生からのメール、そして電話でした。
与えられたテーマは『何が人を「人格」にするのか―今、教育の担い手に求められていること―』
自分の目の前にある日常の現実を見れば到底引き受けられるような事柄ではありませんでした。しかし私の中からは何の自信も見通しもないにも拘らず「引き受けさせていただきます」という言葉が出てきました。ほぼ即答でしたが、神さまの不思議を感じながら、今の自分に必要な問いだという直感で引き受けさせていただきました。
「焦る気持ちを抑え、立ち止まって向かうべき方向を確認せよ。教職員の中に一致点を見いだせ」と問われているようでした。そして、与えられた主題を今の私なりの言葉に言い換えるならば、こんな問いになります。『誰のために、何のためにこの学校を守り続けるのか。その為に譲らずに守り続けなければならないものは何か。』
3.独立学園で守り続けたい場所①~自分が引き出される場所~
独立学園の日常を思い浮かべた時、私には守り続けたい場所というか場面が3つあります。
一つ目は沈黙の時間です。毎日2時間、学習の時間として「沈黙の時間」と呼んでいる時間があります。実際には勉強をする人もいれば、読書をする人、手紙を書く人、悩みに向き合う人、その時間の過ごし方は様々ですが、とにかく2時間一人静かに過ごす時間が確保されています。24時間、常に誰かが傍にいる寮生活、共同生活においてこの2時間は一人自分と向き合う時間として貴重な時間であり、互いに確保し合う努力をしなければ守られない時間です。人と一緒に騒がしくしている時には気づくことのできない自分に出会える時間です。二つ目は一対一で向き合う場面です。特に担任や舎監をやっていると生徒と一対一で向き合う場面が多くあります。お互いに逃げることのできない、そして何の後ろ盾もない場面に立たされることで嘘やごまかしの効かない、より真実な自分の思いが引き出されます。それは自分一人では気づくことのできない、自分でも知らなかった自分との出会いでもあります。
ある2年生の生徒がこんなことを話してくれました。「1年生の時に先輩からあるアドバイスをもらったが、その時の自分は諦めていたので、その言葉が響かなかった。2年生も半ばを過ぎ、半年後には最上級生になる今、ふとあの時の先輩の言葉が思い出された。」これは寮生活で日々生活を共にしているからこそ起こり得たのかもしれません。この生徒の中に一人の人が存在し始めた瞬間です。人格になるとはそういう瞬間なのだと思います。三つめは感話です。毎日、朝夕に礼拝があります。全校生徒職員の前にひとり立ち、自分の思いを述べる機会(感話)が年に5~6回あります。何を言わなければならない、何を言ってはいけないという縛りはありません。そこは自分の言葉の獲得と自己表現の場です。日常生活の中で一人自分に向き合い、また人と一対一で向き合う中で引き出された自分を自分の言葉で表現する場面です。
数年前、本校の入学試験の際に一次試験の課題である作文「基督教独立学園で3年間どの様な生活を送り、何を学びたいか。」に対して3行程度しか書かずに提出した受験生がいました。二次試験の面接の際、私は「この作文に自分の書きたいことは全部書けましたか」と尋ねました。するとその生徒は「はい」と答えた後、「中学校では先生から作文はこうやって書きなさいと指導されるので、自分が考えていることや感じていることが何なのかわからなくなりました」と答えました。その生徒は3年後、自分の願いや感情を取り戻し、自分の言葉で所感を述べて卒業していきました。
4.独立学園で守り続けたい場所②~頭と心と体が繋がる場所~
「読むべきものは聖書(聖書の授業、毎朝夕の礼拝、日曜礼拝)、学ぶべきものは天然(登山、天体観測)、為すべきことは労働(家畜〈牛、豚、鶏〉の世話、作物〈野菜、米、大豆〉の栽培、炊事、除雪)」独立学園が大事にしているこの3つの柱は、一つ一つを切り離して考えることはできません。それは自分の願いや感情を取り戻すことや自分の言葉を獲得し発信していくこととも大いに関係しています。どんなに自分と向き合い、悩み考えてもわからないことがあります。頭だけで考えている間はわかったつもりになっているだけで、実は自分でも感覚としてしっくりきていないことがあります。考えてもわからなかったことが山に登っている時、草刈りをしている時、ふとした時に全てが繋がる瞬間があります。ずっと引っかかっていた聖書の言葉が身に染みてわかる瞬間があります。
5.私(私達教師)に問われていること~自分自身の事実と向き合うこと~
①飲酒を通して見えてきた自分の二面性(真実に生きることを求める一方で真実に生きていない私)
私は独立学園に勤務して以来、17年間男子寮の舎監をしています。これは10年以上前のことです。一部の生徒たちが寮内に持ち込んではいけないものを持ち込んでいるという事実が発覚しました。表では〝深い関係を築きたい〟と言っている生徒たちがその裏では一部の人間だけで隠し事を共有し、隠れた関係を築いている。私はその二面性を指摘し、正直であることを生徒たちに求めました。
しかし、そう生徒に向かって語る私自身に目を向けた時、舎監室で生徒に隠れてお酒を飲んでいる自分がいたのです。寮という場所は24時間、夜も何が起こるかわからない場所です。生徒が相談に来ることもあります。緊急に病院へ連れて行かなければならないこともあります。学校側から飲酒禁止と言われたことはありませんでしたが、ルールがどうであろうと自分が舎監としてどう立つことが望ましいかはわかっていました。だからこそ隠れたのです。もちろん生徒はこの私の裏の事実は知りませんでした。でも私が生徒の前に立つ時、立ちきれない自分に気付いたのです。自分がブレていることを感じながら生徒の前に立っていました。そのことに気付かされた時、この立ち方では絶対に生徒に向き合えないし、自分の言葉は届いていかないだろうと思いました。以来、舎監室での飲酒は一切やめました。事柄は違えど、いつでも二面性を抱える自分がいます。楽な方へ流れていこうとする、いや流れていく自分がいます。自分がどちらに立ちたいのか、日々葛藤の中にあります。二面性を持つことはある意味自然なことで、必要以上に自分を責めることではないと思います。二面性があるからこそ保たれていることもあると思います。しかし、そこに開き直るのではなく、自分の事実から目を背けないことが同じ人として生徒(人)と向き合う時に必要なことだと思うのです。
②日の丸、君が代をめぐる自分の立ち方(自由に生きてよいと言いながら自由に生きていない私)
本校は学校要覧の中にもあるとおり「平和を創り出す人間」を世に送り出したいと願っています。教育プログラムの中に憲法勉強会というものがあり、憲法に照らし合わせながら日本や世界の問題について考える機会があります。また2月11日を休日とせず「思想・良心・信教の自由を守る日」として学習し、夏には毎年沖縄あるいは韓国へ平和の旅を企画しています。この様な学校の雰囲気の中で「日の丸、君が代」に対しても学校としての姿勢ははっきりしています。もちろん生徒にそれを強制することはありません。
私は就職した当初、「日の丸、君が代」に対しての問題意識がなく、学校の姿勢に対してもある意味で合わせていました。そんな中、夏休みに町民運動会があり、生徒数名を連れて行くことがありました。開会式の場面で「国旗掲揚。選手のみなさんは脱帽の上、国旗の方を向いてください。」突然耳に入ってきたアナウンス。どうするべきか迷った私は、帽子を脱ぎ、国旗の方へ体を向け、うつむくことしかできませんでした。学校での私はあたかも「日の丸、君が代」に対しては反対ですよ、という姿勢で立っていました。開会式の時、自分の中身のなさと、「自分を自由に表現していんだよ」と生徒に向かって言っている私自身が一番自由でなかったことに気付かされました。同席した生徒が私の何を見て何を感じたかはわかりません。しかし、自由に表現していない私を見て、どうして自信をもって自分を表現しようと思えるでしょうか。いざという時に自分を自由に表現できるためには、譲れない物、自分の立つところを持っておく必要があるのだと思います。
③棚上げしている教職員間の関係性(人を恐れるなと言いながら人を恐れる私)
昨年度の男子寮は何か息が詰まるような雰囲気でした。失敗は許さない。せっかくの提案も穴を見つけて指摘する。自分が人に対してそうするものだから、自分も人から突っ込まれないように完璧に仕上げてからしか発言ができないという悪循環に陥っているように見えました。失敗しないように無難なところで留めておく雰囲気。何故だろうと、ふと我に返った時、教職員の関係性がまさにそのような関係なのではないかと思ったのです。
生徒はよく見て感じ取っているなと思います。正直、年を重ねるほど指摘されたくないし、指摘されたくないだろうなというのも感じ取れます。言わない、言わせない。そんな空気によって日常の会話が減り、会議のような公の場で明らかにある特定の人に向けた指摘を全体に向けて放つ。それも攻撃するような仕方でしかものを言えない。そうなれば当然守りに入ります。そうやってどんどん良い物が埋もれていく。言いたいことも言えない教師間の関係性、その結果として歪んだ形の自己表現になっていく姿を見ていれば、生徒は結局そういうものだと理解し諦めるのだと思います。
④自分の現在地を正直に認めること
これまでに何人もの生徒と生徒指導という場面で向き合ってきました。そこで見えてくる生徒の内面や今まで見えていなかったその人の新しい側面に出会えた時、そして新しい自分を生き始めようという地点に立った生徒を見た時に喜びが溢れます。そしてそこにある種の満足感を得て、そこで止まってしまうことが多かったように思います。しかし、ここで止まってしまってはいけないのだ。むしろここから学んでいかなければならないのだと思わされています。生徒に関心を持つとは生徒がどの様な社会で生きてきたのか、どんな情報に晒されて生きてきたのか、ということに関心を持つことだということ。目の前のその人に関心を持つということは、目の前のその人の過去にも目を向けるということ。その為には認めたくない自分の現在地を正直に認めるところから始めなければならないのだと思います。わからないならわからない自分。関心を持ってないなら関心を持てない自分。逃げたいのなら逃げたいと思う自分。その事実を認め、その自分を教員同士で共有し合うこと。そこからどうやって手をつなげるかが問われるのだと思います。弱い自分を共に働く者たちとどれだけ共有できるか。弱さで繋がれる関係性を築きたいです。
6 どこに立つのか~どこに一致点を見出して共同体として歩むのか~
目の前の事柄で精一杯の毎日。何とか形を整えなければ。あれも、これも整理しなければ。あの生徒のことも気になる。あの先生のことも心配だ。来年度の事も考え始めなければ。気持ちばかり焦って落ち着かない毎日。ふと、自分はどこへ向おうとしているのだろう。行先もわからないまま形だけ整えたところで何の意味があるのだろう。学校という形だけが残ったところでどんな意味があるのだろう。そんな問いが次々と浮かんできました。ただ目の前の事をこなしている自分。そうやって余裕がなくなり周りが見えなくなった時、自分本位になり、自己絶対化が始まります。そして自分がやりやすいように勝手に孤立していく。自分が何とかしなければなどと、傲慢な思いになる。もちろん目の前の具体的な事柄に向うのは私です。しかし独立学園が神を忘れ、祈りを忘れ、自分を絶対化した時、この共同体は崩れるのだと思います。共同体は外からではなく内から崩れていくのだと思います。私は一人では立てません。引っ張り上げてもらわなければ立てません。日々、目の前の事でいっぱいいっぱいになっている私に「祈ろう」と声をかけてくれる妻に引っ張り上げてもらっています。今回も安積先生から声をかけてもらい、問いを与えられ引っ張り上げてもらったと思っています。
7 おわりに~「人格」とは何か=「私」とは何か~
教師でありながら教師が教えられることは少ないことを実感しています。生きるということは経験を通してしかわからないこと、実感を伴わなければわからないことばかりです。これは生徒も教師も同じです。我々教師も自分自身が痛みの伴った経験をしなければ自分の言葉を持てません。失敗を恐れ、傷つけること、傷つけられることから逃げていては生きた言葉を持てません。
誰のために、何のためにこの学校を守り続けるのか。そのために譲らずに守り続けなければならないものは何か。』独立学園の日常の中で、やっぱりこの学校を残したいなと思う瞬間があります。それは、自分がこれまで知らなかったその人の新しい側面を知れた時であったり、大鎌を振って牛用の草を刈っている生徒の姿を見る時であったり、山頂から眺める景色を目の前に絶句している生徒の姿を見る時であったり、それは一人一人が人格になっていく瞬間です。神さまが一人一人に与えてくだっている、まだ見えない賜物を引き出し合い、生かし合うためにこの学校を守りたい。そこで私ができることは完璧でない私を、そのままの私を苦闘しながら生きることしかありません。そうやって私も私という人格になっていくのだと思います。(基督教独立学園高等学校教頭)