ひろば

共助会に導かれて 阿部真希子


暑かった夏がうそのように、いつのまにか秋を通り越して、寒さすら感じる今日この頃ですが、皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。

寄稿が大変遅くなってしまいましたが、昨夏の修養会にて共助会に入会することがゆるされましたので、その経緯についてお話させて頂きたいと思います。

私は、静岡県の浜松市で生まれ、無教会のクリスチャンホームに育ちました。大学受験の浪人中に、川田 殖先生が講演に来てくださり、私の家に泊まられました。

先生は、初対面とは思えぬ、気さくさと情熱に溢れ、私の目をまっすぐに見て、国際基督教大学の話など、色々なお話をしてくださいました。その時にどこの大学に入るとしても、とにかく入学したら佐久学舎に来なさいと言ってくださったのが、佐久学舎との出会いでした。

それから毎年夏には、欠かさず佐久の地を訪れるようになりました。聖書研究に苦しみ、毎年発表の直前になると、何故今年もまた来てしまったのかと後悔しましたが、どんなに稚拙な発表でも、真剣に受け止めて下さる雰囲気と、最後は祈りで神様に委ねることの出来る、あの独特の体験は何度繰り返しても自然に涙が溢れるものでした。就職や留学、結婚を経てもつながり続けてきた佐久学舎は、たとえ土日しか参加できなくとも、聖書研究の発表を担当しなくとも、自分のあるべきところに立ち返る大切な場所です。今年は開催されませんでしたが、時を同じくして黙想の時を持ったり、電話で何人かの先生方や友人たちと近況を話せたこともまた、大きな恵みでした。また、佐久学舎はただ個々人が聖書に向き合うだけではなく、人格の深い交流の上に成り立っています。以前、『共助』の誌上でも書かせて頂きましたが、佐久の地で何人もの真実な大人と出会えたことが、私にとって本当に大きな財産となっています。外ではそうそうたる肩書を持って活躍していらっしゃる方々が、経験や年齢を超えて全く平等にかかわってくださることは大変な驚きでした。亡くなった仲間のために、人前で涙を流す姿も衝撃的でした。そのような温かい人柄と寛容さに甘んじて、諸先生方の家に実家のように転がり込んだり、若さゆえの失敗もたさん受け止めて頂いて来ました。

佐久学舎の話が長くなってしまいましたが、そろそろ共助会との出会いをお話ししようと思います。実のところ、先生方のご厚意で、ずっと『共助』誌は送って頂いておりましたが、共助会の集まりに参加したのは昨夏の修養会が初めてでした。佐久学舎に足を踏み入れてから、実に10年目のことです。それも飯島 信先生、荒川朋子さんを通して、スピーカーとして呼ばれなければ参加することはなかったかもしれません。正直、『共助』誌は格式の高い文章が並んでおり、なかなか全てを読むことができずにいました。その修養会となると、どんな厳めしい内容かと緊張しておりましたが、誌上でお名前を拝見していたお一人おひとりの人柄に触れ、お話をすることで、その緊張もすぐに解けました。修養会の内容が、まず目からうろこで、経歴も浅い若者に二日目の大きな枠を大胆にあてがう懐の広さに驚きました。また、早天礼拝など一日を通したプログラムの至るところで、個人の経験を中心とした深い話を聞くことができ、そのごまかしのない証しに心を奪われました。このような一貫した空気感を通して、佐久学舎が共助会という土台の上にある交わりであったことを今さらながらに知らされ、深く納得した次第でした。

3日間という短い時間でしたが、会が終わりに近づくと、自分もこの中に加えて頂きたいという思いが強くなっていきました。福島や韓国の話を聞き、普段、自分が見て見ぬふりをしている問題を突き付けられ、このままではいけない、一人では向き合えない問題に向き合うためにしっかりしたところに身をおいて、この先を生きていかなければならないと感じたことも強い動機となりました。それで、荒川朋子さんに打ち明けたところ、皆さんが真剣に受け止めて下さり、荒川朋子さん、石川光顕先生に紹介者を引き受けて頂き、入会が許可されました。後で、他の方はもっと熟考され、長い時間をかけて入会を決断されておられる様子を知り、身の縮む思いをしましたが、神様が許して下さったのですから、私にとって機が熟した入会であったと思わせて頂きます。

入会したものの、遠方ということもあり、なかなか会に参加することは出来ていませんが、40〜50年余りの余生があると考えて、末永く連ならせて頂くことを楽しみにしております。

これからいよいよ本格的な冬に入ります。ウイルスの脅威も懸念されておりますが、お一人お一人の心身の健康が守られることをお祈りすると共に、再び顔を合わせることのできる日を心待ちにしております。  (浜松バプテスト・キリスト教会員)