2020年のクリスマス ― 主よ、来りませ 山本精一
身をもって相ともに事をなす。人間同士の交わりは、この一事によって初めて生き生きと具体化する。しかしコロナ感染拡大のなか、われわれはそのことを抑制しなければならなくなった。動き出しと同時にブレーキをかける。あるいは動き出す前からブレーキをかける。そのぎくしゃくした振る舞いは、瞬く間に日常のなかに組み込まれていった。その結果、直接的な交わりは至る所で切り詰められるようになった。むろんこうした抑制行動には、社会防疫上、冷静沈着に理解受容すべき道理がある。
だがその道理が社会的に受容されるためには、何よりも公正で透明性のある、かつまた弱くされている人々への配慮に満ちた政治的リーダーシップが必須不可欠である。しかしこの国のそれには、世帯あたり一律マスク二枚を投げ込めば民心は安定すると見限る傲慢さしかなかった。そうしたところでは、人々の政治に対する信頼は動揺・低下・瓦解する。そのことがもたらす不信と不安と孤立感、そして生活破壊は、繊細で傷つきやすい(バルネラブルな)人々、格差に喘ぐ人々、重荷を負って働く人々を一層追い詰める。こうして、孤立と分断が、音もなく着々とわれわれの社会を蝕んでいる。
また、この年は、7年8か月にわたって自らに不都合な重大事実を隠蔽し嘘をつき続けてきた人物が、総理大臣の座を投げ出した年でもある。その人物は、窮地に陥る度に、「責任、責任」と弁じたててきた。しかし実際は、問われていることに答えない無責任な姿勢に終始した。そのことによって、責任という日本語は、公の場で貶おとしめられ蹂躙され続けてきた。責任という言葉をこのように弄んだことの責任は、とてつもなく重い。それと軌を一にして、この10年弱の歳月のなかで、責任を歯牙にもかけず、それと背中合わせに「迎合」「忖度」に走る風潮が地を覆っている。例えば、それは、徴用工問題において、終わりゆく生の尊厳を賭けて苦しみ訴える隣国の人々に対して、その声に耳を傾けるどころか、むしろ反発と無視を決めこむ、この国全体の姿勢に如実に表れている。
不信、不安、生活破壊、孤立、分断、隠蔽、虚偽、傲慢、無責任、そして迎合。これが、2020年のわれわれの誤魔化しようのない現実である。しかしわれわれは、この一片の望みもない重畳無惨(ちょうじょうむざん)の底べから、なお心を高く上げて待望する。なぜなら、われわれの側からはまったく到達しようのないものが、驚くべきことに、この無惨めがけて到来されるというのだから。そのときわれわれ自身の倨きょごう傲と虚偽の一切は打ち砕かれる。この畏るべき使信のもとで、痛苦に打ちのめされている人々のことを深く広くおぼえ、来るべき時を待望し、心をこめてともに祈りたい。主よ、来りませと。このとき、「打ち倒されても滅ぼされない」(コリント後書4章9節)というパウロの言葉は、無惨を生きるわれわれのうちにしかと宿り始める。(2020年10月20日)(佐久学舎共同世話人)