共に考え生きること (2012年2号)木村 葉子
昨年初夏、「君が代」不起立処分や解雇撤回等を求める教職員の十一件の裁判が、最高裁で教職員側敗訴となった。国歌起立は一般的、客観的に儀礼的所作であり、上告人の歴史観や世界観を否定せず、憲法一九条、思想良心の自由に対し、「直接的な制約」を強制していない。国家シンボルに対する敬意の表明であるが、教育公務員の公共性、行事の秩序のため「間接的に制約」する合理的な必要性があると判示した。「儀礼的所作」は戦前の神社参拝の「国民儀礼」の言葉を連想させる。最高裁裁判官一四名の内八名が様々な補足意見を書いているのも異例だ。須藤裁判官は、国歌斉唱は「率先垂範的立場にある教員が、高校生に自国のことに意識を向けさせ、国歌起立斉唱を行わせ、敬意の行為をさせることは必要、合理性がある」という。これは思考停止と行為の強制であり、教育基本法が目指す教育ではない。反対意見は二名。宮川光治裁判官は、「……軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし、平和主義や国民主権と相容れないと考えている。そうした思いは、これらの人々の心に深く在り、人格的アイデンティティをも形成し、思想および良心として昇華されている。少数であっても、そうした人々は忘れがちな歴史的・根源的な問いを社会に投げかけている」と述べ、都教委の「本件通達は、……不利益行為をもってその歴史観等に反する行為を強制することにある」と教育行政の不当な支配に言及し、判決すべき本論を指摘している。 国旗国歌への考えは、個人の国家観と関わるものであり、一般的、客観的なものに縛られない保障が憲法の役割だ。「君が代」起立強制が、ある人を強い葛藤に投げ込み、「良心的行為の自由」、人格の核心が侵害されていると訴えている。教職員の職務職責は何か。単に知識の伝達ではなく、成長過程にある具体的な子どもとの人格的な関わり、共に考え共に生きることを抜きにして、子どもの人格を尊重し、その必要と問いに責任応答する教育は行うことが出来ない。多くの不起立教職員が生徒たちに強制する者とされることが深刻な苦痛だと陳述している。
キリスト者の私は、「神を愛すること」と「隣人愛」(生徒たちへの)という重要な戒めの前に、「一〇・二三通達」が「踏み絵」の苦痛となっていると法廷尋問で答えた。「人格の尊厳」こそが平和主義、立憲民主主義の土台である。しかし、日本社会に「人格の尊厳」を尊重するとはどんなことか、国の指導者から社会、学校、子育ての親、不起立合憲を訴える教職員、わたしに至るまで、未だに理解と実践にはほど遠い。それは「手で触れたものを伝えた」キリストの十字架、神の愛の福音の教える処である。宣教一五〇年。日本のため、友よ、共に祈りつつ歩もう。(二〇一一年十二月記)