先立ち行かれる主 (2012年1号) 飯島 信

 2012年を迎えた。共助会創立93周年の年である。遅れていた『基督教共助会九十年―その歩みに思う』(仮題)編纂の事業も、ようやく今春、その成果を世に送り出すこととなった。森明によって創立されたキリスト教共助会が、この90年、激動する日本社会のただ中にあって、キリストの福音の消息を世に知らしめるためにいかなる歩みを成し得て来たのか、そのことを今一度振り返り、問い直す作業である。編纂の責任者をはじめとして、ここには友たちの膨大な時間が費やされている。

  森明の身命を賭して創立された共助会草創期とこれに続く約20年、先達たちはキリストの福音を掲げて全国の地にある帝国大学・高等学校に赴いた。たとえ一人の友であっても、その友にキリストを紹介するためであった。先達たちの伝道の歩みは、何よりも主の命ずるままに、先立ち行かれる主に従い、主に導かれての歩みであった。

  先達たちはまた、中国大陸に対する日本の侵略の罪を深く憂い、悲しみ、たとえ一人の中国人であっても、彼/彼女のキリストにある友となるために熱河へと向かった。これもまた、先立ち行かれる主に従い行く歩みであった。

  しかし、この間、アジア・太平洋戦争を起こしていく日本のナショナリズムの中で、政府・軍部の国策に翻弄され、真(まこと)の主を見失い、誤った信仰に走る者もいた。さらには、国策に否を言えぬ沈黙の過ちもあった。

  そのような先達たちの歩みは、90年の歴史から見れば、3分の1にも満たない。それでは、共助会の歴史の3分の2以上を歩んでいる現在の私たちは、先達たちの残した遺産をどのように継承してきたのか、そのこともまた問われるのである。身命を賭し、キリストを証しし、主にある友情に生き死にした森明とこれに続く先達たちの信仰の消息から何を学び、何を問うのか、この1年の私たちの歩みはその課題に集中したいと思うのである。

  この春、韓国共助会との交わりの20年の歩みを記念する修練会が5たびソウルにて開催される。韓国の友とのキリストにある交わりは、かつての日本帝国主義による朝鮮植民地統治という負の歴史に対する私たちの謝罪を言い表し、赦しを求める思いの中に、新たな和解の道を模索し、創出する意味を持つ。

  90年と20年の歴史。その歴史に生きる私たちのささやかな歩みを導くのは、先立ち行かれる主イエス・キリストである。このキリストの十字架を胸に刻みつつ、この一年の歩みを共に全うしたいと祈る。