アジア学院

学生説教 「宗教」だけでは誰も救われず― イエス・キリストのみがなせる業 ―

「宗教」だけでは誰も救われず― イエス・キリストのみがなせる業 ―

ルカによる福音書10:30―35パトリック・クリエ

もし私たちが宗教のためだけに教会に来るのであれば、それは十分ではありません。ある宗教団体に属しているということだけでは不十分です。それだけで罪人が救われることはなく、キリストの愛の実践が伴わない宗数が世界の役に立った試しはありません。世の人々が神の国に入り、救いに与るようになって欲しいと願うのであれば、私たちは「宗教」を超えて行かなければなりません。自分たちが信じていると普段公言していることを実践しなければならないのです。キリストは言われます。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」(ルカ6:46)

私はノン・クリスチャンの家庭に生まれました。でも私たち家族は、何か崇高な存在、全能の神のようなものが存在することは信じていました。ただその存在との関わり方を知らなかったのです。

幼い頃の私は恐れ知らずで、手に負えない子供でした。キリストが私のその後の人生をどのように変えられるか、家族の誰も想像できませんでした。父ですら、私の行く末について絶望していました。欠けだらけの私がまともになれたのは主の十字架の業によるのです。

私が10代の頃、母国は内戦の只中にありました。10歳の時に内戦が勃発し、戦いが終わったのは24歳の時でした。この経験の全てが、神に対する自分の信仰を深めていくことに役立ちました。だからこそ私は今、見守って下さる神が確かに存在するということを、自信を持って皆様に伝えることができるのです。農業に携わることや平和のための活動といった社会貢献を通して、私はキリストの福音を伝えていくことができると信じています。

さて、本日の聖書箇所には二人の人物が描かれています。一人は、礼拝に行く途中の着飾った祭司、もう一人は仕事への途上にあったサマリア人です。当時、ユダヤ人たちはサマリア人を、律法を守らない者、即ち罪人と見なしていました。しかしこのサマリア人は、礼拝へ行く途中であった祭司よりも慈愛に満ち溢れた行動を取ります。

時として私たちキリスト者はこの司祭のように行動していませんか。日曜日の朝だけ、そして言葉だけで行動が伴わないままの信仰、これが私の言う現実に根を張っていない「宗教」です。どうか皆様、忘れないで下さい。あなたが隣人とどう関わるかによって、あなたと神との関係は更に探まっていくということを。今の世代が宗教というものにうんざりしているとしたら、彼らを非難する前に私たちは自問しなければなりません―これまで自分はどのように信仰を実践してきたのかと。

辞書では、キリスト教は世界の宗教の一つとして定義されています。しかし聖書を学び、私はキリスト教が宗教以上のものであると理解するようになりました。イエスはこの地上に実在したお方です。彼は確かに存在し、聖書に書かれている通りのことをこの世でなされたのです。イエスは偉大な教師であり、神の子でありました。

イエスは聖霊を通した交わりをあなた方に望んでおられます。あなたのために十字架につかれたこと、そしてあなた自身がイエスを〝経験〟することを望んでおられることを忘れないで下さい。そうすれば、あなたの信仰は「宗教」にではなく、証しと実際の経験に基づいたものになるでしょう。その時、あなたはキリストのためであれば喜んで全てを犠牲にし、宣教に喜びを見出すでしょう。

今日、全世界の若者世代が、自分の親にこう尋ねます。「ご自身の民を養われる神が存在すると言うなら、なぜこんなに多くの邪悪なことが起きているのか。それも、自らを宗教的な人間だと称する人々がそんなことをしているのか」と。

世界のどの教会でもそうですが、リベリアの教会でも偽善がまかり通り、聖書が求める水準を満たしきれていないという問題は抱えています。しかし、キリストは私たちの弱さにおいてこそ栄光を現されてきました。と言うのも、リベリアという国の礎を築く上で教会は重要な役割を果たしてきたのです。特に国の大多数を占める福音派の教会は頻繁に相互交流をしています。そうすることで、非常に多くの人々をキリストの体=教会へと導いてきたのです。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13 :35)とイエスが言われたことの実践です。私たちの教会はまた、青少年や子供を対象とした活動に多大な力を注いでいます。アフリカの人口構成を見ると青少年層が厚く、彼らは教会を含むアフリカ社会の未来ですので、様々なトレーニングを行います。

牧師たちの語る説教は、ある人の人生が劇的に変わった話や、証しなどにより構成されています。これらのメッセージは机上の空論ではなく、様々な人生経験に満ちているので、人々は容易に受け入れることができるのです。温かい交わり、青少年・子どもへの投資、そして人生を変えるほどの力強い説教、私はこれらの3つがリベリアの教会の力と成長の源になっていると思います。

今日、若者たちは非常に多くの情報と高度な技術にさらされています。この世界に対して宗教が何をしているのか、特に宗教が及ぼす悪影響について、彼らはすぐに情報を得ることができます。もし教会が未来の世代を救おうとするならば、私たちは更なる行いをもって「宗教」を超え、キリストのように生きることを追い求めていかねばなりません。それはインターネットやSNSがとって代われるものではありません。日本の美しい公園を訪れた時などに経験する、自然の持つ慰安の力をしても置き換えることはできません。キリストご自身が自然の創り主であるからです。

福音主義の説教者として私は、議論によりキリスト教の真実を否定する人々が多くいることに気が付きました。以前の私自身もそうでした。そうした人たちとは議論しないに越したことはありません。ただ私は彼らのために祈ります。彼らが私の生き様を見て、そこにイエスを見出す日が来るまでは良い友人であり続けたいと。私たちの日々の生き様を見て、彼らは私たちのメッセージを拒絶するかもしれません。例えそうであっても、あなたの無言の祈りと無条件の愛を拒絶することはできないのです。

「宗教」だからといって誰かに教えなければならないと気負わないでください。私たちのキリストにある生き方こそが、まだ真の神を知らずにいる多くの人々を教会に向かわせることを忘れずに生きていきましょう。(2019年度 リベリア卒業生)

(日本基督教団 西那須野教会にて 2019年6月23日)