巻頭言

キリスト者の交わり 角田 秀明

ディートリッヒ・ボンヘッファーは「共に生きる生活」(新教出版社:森野善右衛門訳)の中で、キリスト者の交わりについて次のように書いています。

「キリスト者の交わりは、イエス・キリストを通しての、またイエス・キリストにある交わりを意味し、それ以上のものでもなく、またそれ以下のものでもない。私たちはお互いにただ、イエス・キリストを通して、またイエス・キリストにおいて、結ばれているのである。」

先週の主日に私の所属する浦和キリスト教会で、お一人の女性が信仰告白をし、浸礼のバプテスマを受けられました。彼女は、信仰告白の中で、今日までの苦難について触れられていました。両親から言葉と暴力で虐待され、学校で辱められ、友達もいませんでした。23歳で結婚し3人の子供が与えられ、カトリックの方から聖書の「天地を創造された神」について聞き、近所にあった教会に初めて行き、教会がとても心安らぎ、安心できる唯一の場所だと感じ、子どもを連れて2年ほど通ったそうです。しかし、数年後、家を買って他県へ引っ越したのですが、やがて夫が人妻と家を出て行方不明になり、小学1年生を頭に3人の子を育てなければならなくなりました。一日15時間働いて3人の子供たちを育て上げたけれど、60歳から66歳にかけて乳がん、肺、肝臓、甲状腺がんに罹り4度の手術と脳梗塞を経験し、「一生懸命生きてきたのに何故私だけがこんな目に遭うのか。」と神を恨んだと言われていました。闘病中、浦和教会のネット配信で礼拝に参加し、今年からリアルで礼拝に出席するようになり、遂にバプテスマの決心が与えられたのです。実の両親から疎まれ、子どもたちの父親に去られ、自分は価値のない女、誰からも愛されないと自分を卑下し続けていたけれど、イザヤ書43章4節の神様の言葉を信じ受け入れることができたのです。

「私の目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43章4節)

自分中心で神様に背いてばかりの、愛される資格のない自分のような罪人にも悔い改めて立ち帰るよう招いて下さる主イエスの一方的な恵みと憐れみ、父なる神の愛に感謝します、と述べておられました。

この証を聞きながら、キリスト者はお互いに、救いのよきおとずれを持ち運ぶ者として出会い、お互いにイエス・キリストを通して結ばれ、イエス・キリストにある交わりに入れられることを実感しました。

(日本バプテスト浦和教会員、聖学院中高校前校長・現英語科講師)