文芸

対馬丸   林 貞子

激沈など夢想だにせず父母は疎開地へ行く わが子見送る  (那覇港)

暗黒の海に助けを求めつつ溺れいる子ら見えずなりしと

対馬丸生き残りしが描きたる漆黒の海に飛び散る千余

沖縄で、国民学校生徒のあどけない写真が沢山に並んでいる「対馬丸記念館」と出会いました。

対馬丸と共に、海底に沈んでいった約800人の子どもたちで、それは当時の私(小学三年生)と同じ位の年齢でした。真っ暗な大海原に投げ出され、父の名、母の名を叫びつつ、溺れて死んでいったであろう子どもたちに、わが身が重なり、子や孫が重なりました。

私は、迷うことなく賛助会員になりました。

対馬丸事件は、太平洋戦争敗戦の前年8月のことです。政府は、いよいよ沖縄が戦場になるということで、高齢者、学童など10万人の疎開を決めました。

対馬丸もその中の一つとして出航しましたが、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて10分足らずで船は沈み、約1500人が夜の海に投げ出され、そのうち15歳までの犠牲者は約千人という大惨事になりました。日本軍による箝口令下、子どもを失った悲しさ悔しさを口外することも固く禁じられていたそうです。

敗戦から40年余の1997年に、海底に沈んでいる対馬丸が発見され、対馬丸記念館設立に至ったということです。他にも撃沈された船、死者の数は枚挙にいとまがないと思います。

あまた遺体漂着の海は蒼深く波寄せいるか. かの日も今日も (船越海岸の宇検村)

疎開地へ送り出したる悲しみの父母既に 失せし歳月

「対馬丸 二度と沈めまい」と訴(うた)えども過酷の歴史は今なお続く

(日本キリスト改革派 千里摂理教会員)