講演

アジアの国々に対する戦争責任を考える、特にフィリピンとの関わりにおいて  荒川 朋子

 2025年「共助」第7号にも書きましたが、私は2025年夏にフィリピン・レイテ島を訪れました。アジア学院で働く中で多くのフィリピン人と関わり、私にとって非常に親しみのある国です。卒業生もインドに次いで多く、120名以上がフィリピン各地で活動しています。

 またアジア学院は1990年代半ばから約10年間、フィリピン・ネグロス島で現地のカトリック修道会と協力し、有機農業の普及による生活向上プロジェクトに取り組みました。その関係で、私自身も現地に4度訪問しました。

 フィリピンの印象を端的に言い表すのは難しいのですが、強いて言えば、絶対的な貧困や厳しい状況の中でもたくましく生きる人々のエネルギー、そして家族への深い愛情と献身にあふれた人々の姿です。

フィリピンは親日国のひとつとして知られ、永住権、就労ビザ、特定技能ビザ、学生ビザなど、有効なビザを持って日本に滞在するフィリピン人は30万人を超えています(2025年6月時点で349、714人)。在留外国人としては中国、ベトナム、韓国に次いで4位で、全体の約1割を占めています。一方で、日本からフィリピン、特にセブ島などの観光地を訪れる日本人も30万人を超えると言われています。

 1980年代には日本への出稼ぎブームが起こり、暴力団などを介した違法な興行(風俗業など)に関わって不法就労し、悲惨な状況に追い込まれたフィリピン人女性の問題が社会問題として明らかになりました。私が最初に出会ったフィリピン人たちも、夜の飲食店で働く女性たちでした。私の実家は群馬県高崎市の、当時はにぎやかな商店街で花屋を営んでおり、隣接する飲食街にはフィリピンから働きに来ていたと思われる女性たちをよく見かけました。しかし、フィリピン人やフィリピンという国と個人的なつながりを持つようになったのは、アジア学院で働き始めてからのことでした。

 アジア学院で出会ったフィリピン人たちは、皆とても明るく、笑顔がまぶしく、おしゃべりや音楽が大好きな陽気な人ばかりでした。フィリピンでは、教師、看護師、公務員、教授、弁護士などの専門職に就く女性の割合が世界でも上位で、アジアでは1位とされています。一家の大黒柱として働く有能な女性が多い国でもあり、こうした背景が近年の女性の海外出稼ぎ労働にもつながっているとも言えます。私が思い浮かべるフィリピンの風景にも、こぎれいな服装で颯爽(さっそう)と仕事場へ向かう働き者の女性たちがいる一方で、日がな一日、家の前でぼんやりと座っておしゃべりをしたり煙草を吸ったりしている男性たちの姿があります。その対比がとても印象的でした。

 「共助」7号で私が書いたように、また湯田さんが4号・5号で触れているように、フィリピンは太平洋戦争で2度も戦場となりました。1度目は1941年、日本軍がアメリカ統治下のフィリピンに上陸した時で、その直後にフィリピンの人々の心に傷となって深く刻まれている「バターン死の行進」が起こります。2度目は1944年10月、アメリカ軍が再上陸し、日本との激しい戦闘が続きました。これが私が書いた「レイテ島の戦い」です。

 フィリピンは、第2次世界大戦中、日本軍としてはどこよりも多い約75万人という兵士が動員され、そのうち52万人もの命が失われた最大の激戦地となった場所であります。神風特攻隊が初めて投入されたのもフィリピン、レイテでの戦いでした。しかし、最も多く犠牲になったのは現地の民間人で、その数は110万人以上とされています。特に、米軍側についたフィリピン兵や捕虜、抗日ゲリラ、市街戦に巻き込まれた罪のない人々が多く含まれていたことを忘れてはなりません。マニラ市街戦では女性や子供を含む実に10万人以上の民間人が犠牲になっています。

 この夏、レイテ島では幾人かの現地の方から戦中・戦後の話を聞く機会がありましたが、日本占領期に政府の役人として働いていた人々は、戦後「日本軍の協力者」と見なされ逮捕・投獄され、家族もつらい思いをしたそうです。訪れたビリバヤ市の現市長の祖父も当時市長で、戦後6年間投獄され、家族は報復を恐れて島を離れざるを得なかったと、当時のことを涙ながらに語ってくれました。

 戦後、フィリピンには日本軍の統治から解放してくれたアメリカへの強い親米感情が残りましたが、一方で他国のような激しい反日感情は広がりませんでした。

 その背景にはいくつか理由がありますが、特に語られるのが1953年7月13日、ムンティンルパ刑務所に収容されていた105人の日本人戦犯に対し、当時のキリノ大統領が恩赦を与えた出来事です。強い反日感情が残る中での決断で、フィリピン国民の受け止めは複雑だったと言われています。(実際、その4か月後の大統領選でキリノ大統領は落選し、恩赦が原因の一つとも言われています。)

 しかし、この恩赦をきっかけに日比両政府の関係改善が進み、3年後の1956年7月に国交が正常化しました。その際、日本は日比賠償協定に基づき千九百億円の賠償金を支払い、これは日本が東南アジア4カ国に支払った賠償金総額の半分以上を占めていました。その後も日本からの経済協力は続きました。一説では、フィリピン政府はこうした支援を日本の加害の歴史に対する認識や贖罪の姿勢として受け止め、それが政府主導の反日教育を行わなかった理由の一つになったとも言われています。

 1964年に日比間の自由な渡航が始まると、フィリピン各地に日本人戦没者の慰霊碑が建てられ、その数は約400にのぼります。日本からの慰霊ツアーも盛んになり、フィリピンの人々は元兵士や遺族を厳しく扱うどころか温かく迎え、関係修復を望んだと言われています。

 私が訪れたレイテ島ビリアバの日比合同慰霊碑もその一つです。現地に置かれていた遺族の記録には、戦後50年を経て慰霊碑が建てられ、その後も日本の遺族が毎年訪れ、地域の人々と交流を深めてきた経緯が書かれていました。そして、慰霊碑に刻まれた平和への強い決意を、今も大切に伝えようとする現地の人々の思いに、私は特別なものを感じました。

 第2次世界大戦中のフィリピンでの戦闘、とくに現地に与えた甚大な被害について日本での認識が薄いのは、フィリピン側の寛容な態度も影響しているのではないかと思います。戦後29年間ルバング島で戦い続けた小野田元日本兵の帰還は日本で大きな話題になりましたが、報道では彼の特異な生き方ばかりが強調され、彼がその間に行った襲撃や放火、30人以上のフィリピン人を殺害した事実はほとんど触れられませんでした。そして、小野田氏が帰国できたのは、これらの罪に対して当時のマルコス大統領が恩赦を与えたためであることも、あまり知られていません。

 現在フィリピンが親日国として知られていても、過去の出来事がすべて忘れ去られ、完全に赦されたわけではないことを心に留めておく必要があります。ルカによる福音書17章3―4節には「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とありますが、日本は7回どころか1回でも心からの「悔い改め」の言葉をフィリピンに対して言ったことがあるでしょうか。

 フィリピンの人々は戦争だけでなく、台風や自然災害、貧困、政治的混乱、そして家族を支えるために人口の1割が海外に出稼ぎに出なければならないという厳しい現実に直面しています。レイテ島は2013年、フィリピン史上最大級といわれる超大型台風ハイエンに襲われ、近隣の島々を含め6千人以上が犠牲となった場所でもあります。避難していた多くの人々が突然の高潮で命を落としたタクロバン市内の大きな体育館は今も使われており、私はその敷地内にある墓地にも足を運びました。忘れるにはあまりに深い傷が、人々の笑顔の奥に静かに横たわっていました。それでも未来へ歩もうとするフィリピンの人々の思いを、私たちは感謝と敬意をもって受け止めるべきだと感じます。

 実は、慰霊碑の裏側に刻まれた言葉を読んだ時、日本語と英語の表現に少し違いがあることに気づき、心に引っかかるものがありました。日本語では主に日本人の被害と悲しみに焦点が当てられている一方で、英語(フィリピン側)のメッセージは、過去の痛みを抱えつつも、それを乗り越えて両国間の関係を修復し、未来へ進もうとする願いと強い意志がより鮮明に感じられるのです。

 【日本語】

 「第2次世界大戦のレイテ戦は、比類無き激戦地であり、日比双方の兵士は大義のために身を挺し、多くの犠牲者を出しました。西海岸山岳地周辺の日本軍兵士は、弾尽き、食なく、病魔に倒れ、万斛(ばんこく)の涙の中ひたすら望郷の思念に、待つものは死以外のものは、ありませんでした。

 ここに諸霊の冥福を祈り、日比合同の鎮魂の碑を建て、再びこの非を繰り返さないことを誓います。

 「ゆくもなし 還るもならず 兵枯るる 呂邨」

 【英文】(日本語訳は筆者)

 「この記念碑は、第二次世界大戦末期にブガ・ブガ丘陵地帯で戦ったフィリピン人と日本人の兵士たちに捧げられたものです。また、かつて敵対した両国とその退役軍人、そしてその子孫たちが、両国間の過去の争いが二度と繰り返されないよう共通の祈りを捧げる、新たな友好の時代の象徴でもあります。

 永田勝美氏をはじめ、友人各位ならびに何らかの形で本慰霊碑建設にご支援を賜りました方々の献身的なご厚情に、ここに深く感謝申し上げます。」

 両国の間に起こった歴史を受け止めたうえで、これから私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。戦後の和解の歩みとは何であるべきか――私は、それぞれの過去をしっかりと記憶しながら、共に生きる姿勢だと考えています。「共助」7号では、フランシスコ教皇の「思い出し、ともに歩み、守る」という言葉を引用しましたが、これは深い傷と悲しみに向き合い、その痛みを抱えて今を生きる人々を忘れないという姿勢につながるものだと解釈しました。身近なところでは、フィリピンの現状や在日フィリピン人が置かれた状況に目を向け、自分との関わりの中で何を感じ、何が共にできるのかを考え、行動することが大切だと思います。

 現代のフィリピンが抱える課題は非常に大きく、簡単に解決できるものではありません。政治的腐敗、自然災害、開発に伴う環境破壊、貧困、そして世界最多といわれる海外出稼ぎ労働者の問題があります。さらに、それに起因する家庭やコミュニティーの崩壊、少数民族への差別、イスラム過激派組織によるテロなど、多くの要因が人々の生活に深刻な影響を与えています。

 最後に、こうした厳しい状況に向き合いながら活動を続けているひとりのアジア学院のフィリピン人卒業生から昨年末に届いたメールを紹介したいと思います。その言葉を通して、フィリピンの〝今〟を少しでも感じていただければ幸いです。(このメールは、アジア学院を通じて知り合った方への自己紹介として書かれたものです。)

 私は1990年にアジア学院を卒業しました。アジア学院在籍中には日本人農家に嫁いだフィリピン人女性たちとの接点を築き、未払い賃金に苦しむフィリピン人労働者を支援し、日本の弁護士グループと連携して調整を行いました。また、大田原市にあるナイトクラブ(ヤクザが経営する)で働くフィリピン人女性たちの支援にも携わりました。

 現在は西ビサヤ移民ネットワークの事務局長を務めており、西ビサヤ地方5州とイロイロ市での活動を管轄しています。当ネットワークでは陸上・海上両方の海外フィリピン人労働者とその家族を組織化しています。当地域は国内第3位の移民労働者供給源であり、約43万人のフィリピン人が海外に出稼ぎに出ています。海上労働者の多くも西ビサヤ地域出身です。

 いくつか数字を挙げますと、約千二百万人のフィリピン人、つまり人口のほぼ10%が海外で働いており、彼らの送金によって年間380億ドル(6兆円)が国内に送金され、我が国の経済を大きく支えています。毎日約六千~七千人が海外で働くために出国し、毎日約6~10人が虐待や不当な扱いを受けたり死亡したりして帰国しています。

 フィリピンは農業国であるにもかかわらず、輸出志向で輸入依存の政府政策により、国家はさらに対外債務に陥っています。木材・海洋資源・鉱物資源・農産物の輸出から、結局は労働力の輸出に至ったのです。看護師と医師の輸出では世界一である一方、国内の多くの地域では医療アクセスすら確保できていません。エンジニアたちは石油産出国や太平洋の島々で働いています。

 1970年代に中東へ建設労働者を派遣し始め、その10年後には労働の女性化が進みました。中東、香港、シンガポール、マレーシア、イタリアなど多くの国で家事労働者や清掃員として働く母親たちがいます。これは家族、特に残された配偶者や子供たちとの関係に深刻な影響を与えました。海外出稼ぎ労働者(OFW)の子供たちには、ひとり親家庭の増加や自殺さえも増加しています。

 近年労働力の輸出はさらに加速し、農業労働者を韓国、日本、ニュージーランド、オーストラリアなどに送り出しています。家事労働者もスロベニア、クロアチア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ロシアなどヨーロッパの多くの国々に送っています。

 現在、私は台湾や中国の漁船で奴隷のような状況下で働かされるために募集される移民漁師の状況にも焦点を当てています。また、ミャンマーやカンボジアの詐欺拠点で募集される数千人に対しても対応しています。

 Mさん(2025年アジア学院卒業生)は、新型コロナウイルス感染症のパンデミックの直後に組織化された海外出稼ぎ労働者の家族のグループのリーダーの一人であり、多くのフィリピン人移民がコロナで強制的に帰国させられた状況に対応する中で活動を開始しました。彼女はまた、イロイロ州ポトタン市における移民の自治体組織を率いています。(略)

 こうした現在のフィリピンの状況が、戦時中に日本が犯した罪とどのように関係しているのか――そう問いかけたくなるかもしれません。しかし、彼らの暮らす場所に足を踏み入れ、その生活に触れ、懸命に生きる姿を目の当たりにし、はじけるような笑顔が戦争の話題になると一瞬で曇るのを見たら、そうした問いは次第に意味を失っていきます。私たちは同じ人間、同じように罪を背負い、神に赦された人間です。また、現在はもちろん、過去の罪と悲しみの延長線上に生きる人間です。その人間同士が懸命に生き、共に支え、共に生きる以外に、与えられた生を充分に生きる選択肢はあるでしょうか。

 和解とは、神の前に赦された人間同士として愛し合って生きること ― 私はその一点に尽きると思っています。           (アジア学院常務理事)

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