聖書研究

旧約用語の基礎知識(4)「天と地」  小友 聡

 「天と地」と言うと、日本語では「天地の差」という表現があって、それは絶対的対照性を意味します。しかし、旧約聖書では「天」も「地」も共に創造論的な概念です。「初めに神は天と地を創造された」から旧約聖書は始まるからです。

 1.「天」について

 天はヘブライ語でシャーマイムと言い、複数形!です。古代ヘブライ人には独特の宇宙観があります。天は地上をアーチのように覆う大空(天蓋)であり、しかも、いくつもの層に分かれています。詩編で「天の天」(148:4)とか「もろもろの高いところ」(148:1)と呼ばれることからもわかります。その天の創造について、創世記はこう記します。「神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。」(1:7―8)

 創造の二日目に、大空によって水(深淵の水)が上と下に分かれ、大空の下にある水は海となり、上にある水は大空によって下支えされます。この大空にはたくさんの窓があり、その窓が開くと天から雨が降り注ぐのです(創世記8:2)。また天には、昼を治める大きな光(太陽)と夜を治める小さな光(月)があり、星々も造られました。この天は神の権威の象徴として、神が玉座を据える場所ともみなされます(詩編103:19)。これらはまさしく古代的宇宙観で、私たちが知る天文学的知識とは大きなずれはあります。けれども、あくまで天は神によって創造された存在です。ヨブ記でもそれは確かめられます。気象や天空の現象など、自然界の詳細をヨブに語ったあと、「あなたは天の掟を知り、その法則を地に据えることができるか」(38:33)と神は問うのです。自然界のありようは神の御手によるもので、私たちに知りえない偉大な業だと言われます。

 うっかりすると、私たちは「天」そのものを神とみなし、聖書と異なるアニミズムに陥ります。自然の細部に神的なものが宿ると素朴に考えたり、また荘厳な自然現象に神を畏怖する感性は誰にもありますが、旧約聖書では天は徹頭徹尾、神の被造物なのです。

 2.「地」について

 地は天と同様に神によって造られました。「神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた」(創1:10)。地はヘブライ語でエレツと言いますが、耕作可能な大地という意味のアダーマーもよく使われます。旧約聖書の古代的宇宙観では、天と地は区別されるため、二層構造のように思われますが、地の下には「深い淵」テホームがあります(詩編71:20)。それは陰府(シェオール)と言い換えられ、死の世界を指します。つまり、厳密には三層構造になっていて、人が住む地はいわば天と陰府の間の中間地帯です。

 地には創造論的な意味と救済論的な意味があります。創造論的には、地は神によって創造され、「良いもの」として人間に与えられました。天地創造において、神は地に植物を生えさせ、また家畜や地の獣を造られましたが、それは「産めよ、増えよ、地に満ちよ」というように、人間を地上で生かし、祝福するためでした(創1:28)。人間は地を管理することを命じられ、また額に汗して、地(土)を耕すことが求められます(創1:23)。

 地にはまた救済論的な意味があります。それは、旧約聖書では地が「土地」として、約束の民に与えられるからです。創世記では、創造物語から族長物語へと続く冒頭で、アブラハムに「土地」(エレツ)が約束されます(創12:1)。その土地は「乳と蜜の流れる地」です(申命記6:3など)。これは旧約聖書全体とイスラエルの歴史を決定する約束です。アブラハムにおいて神の民は「土地」を約束され、やがてその土地を取得し、その土地を奪われ、そして再びその土地に戻るという物語が旧約聖書であり、それがイスラエルの歴史です。いうまでもありませんが、その「イスラエル」の歴史を継承するのは現在のイスラエルではなく、新しいイスラエルとしての教会です。

 3.天地の造り主を信ず

 天と地は神の被造物です。それは、太陽や月を神として崇める古代オリエントの宗教とは異なります。旧約聖書では天体崇拝は禁じられます(ゼファニヤ書1:5―6)。そういう意味で、旧約聖書では天は超越性を失っていると言えるでしょうか。新約聖書ではマタイ福音書がそうであるように、神が天と同一視される傾向はあります。しかし、天と地が神の被造物とされるのは旧約聖書と同じです。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という信仰告白は、旧約聖書に基づくものです。

 神は天と地を創造し、地上を生きる人間において救済の計画を進め、やがて終末時にそれを完成されます。終わりの日に、天と地は崩れ去ります。「山々はその血によって溶け出す。天の全軍は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる」(イザヤ書34:3―4)。繰り広げられた聖書の巻物がくるくると巻かれるように、すべてが閉じられ歴史は終わるということです。やがて来る宇宙の終末の予告とも言えます。それとともに、旧約聖書ではこう預言されます。「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ書65:17)。これは終末の到来、再創造を予告するものです。天と地は神によって創造された被造物であるゆえ、やがて消滅します。それを説く聖書は、神が地の管理をすべて人間に任されたことをも語ります。それは、私たち人間に地(=地球)を維持する使命があることを教えてくれます。

 旧約用語の基礎知識(5)「和解」

 「和解」はそれに対応するヘブライ語がなく、旧約聖書にない概念だと言われることがあります。しかし、誤った認識です。そもそも「和解」という日本語が問われます。和解の意味は仲直りであり、対立する二者の間に成り立つ幸いな関係、秩序の回復です。そのような意味の「和解」が旧約聖書に欠如しているはずはありません。旧約に「和解」がないというのは、ただ単に翻訳上の問題にすぎません。「和解」はないどころか、旧約聖書それ自体が和解の書だと言うことができます。

 1.祭儀における和解

 「和解」に最も近いヘブライ語はキッペール(動詞カーファルの強意形)です。これは祭儀的用語で、「覆う」「罪を贖う」という意味があります。祭儀的用語だからと言って、キッペールが「和解」とは異質だと考えるべきではありません。「覆う」ということは、罪を覆い隠し見えなくすることです。つまり代償によって罪が贖われるのです。その代償としていけにえが捧げられます。イスラエルの民は契約の民であるゆえに、キッペールによって、神との契約を保持します。

キッペールの派生語として象徴的なのは、契約の箱を覆う「蓋」が「贖いの座」(カポレト)と呼ばれることです(レビ記16・2)。蓋をして覆い隠すとは、罪が取り去られるということ。そこでは祭司が仲介者として祭儀を執行するのです。旧約聖書では、祭儀によって人は神との関係を修復し、神との和解が成し遂げられます。言い換えると、祭儀は人が神と和解する(仲直りする)ための手段にほかなりません。その意味において、キッペールを「和解する」と言い換えることができます。旧約聖書では、そのほかにガーアル(贖う)、パーダー(買い戻す)というヘブライ語があり、これらは主に法的・社会的な救済や解放を意味します。これらは「和解」の厳密な同義語ではありませんが、貧困から救済、あるいは隷属から自由において、それを媒介する代償的・犠牲的行為が必要とされる点で、「和解」に繋がる概念だと言えます。

 2.秩序の回復としての和解

 旧約聖書は和解の書です。それは、神が選んだ民イスラエルと契約を結んだことに関係します。シナイ契約において、イスラエルは神の民となりました。しかし、イスラエルが契約から離反したことによって、契約は無効化します。にもかかわらず、神は背信のイスラエルに立ち返りを促し、イスラエルと和解しようとするのです。

 「……私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった︱主の仰せ。その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである︱主の仰せ。私は、私の立法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、『主を知れ』と言って教え合うことはない。……私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない」(エレミヤ書31:32―34)。

 この新しい契約で予告される歴史は、まさしく神とイスラエルとの和解の歴史です。その意味において、旧約聖書はまさしく和解の書と言えます。旧約聖書における「和解」はヘブライ語のシャロームと響き合います。シャロームは「平和」と訳されますが、契約用語。秩序、バランス、回復、補填、償い、そして和解を意味します。イスラエルとの間に和解がもたらされるとき、神によるシャロームが貫徹されます。

 3.和解の実例としてのヨセフ物語

 旧約聖書では和解が重要なテーマとなって現れます。たとえば、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウ、サウルとダビデなど、枚挙にいとまはありません。ヨセフ物語を例に挙げます。ヨセフはヤコブの11番目の息子で、父親に溺愛されました。それを兄たちは妬み、皆でヨセフを罠にかけ、ヨセフは無理やりエジプトに連れ去られました。エジプトで彼は散々苦労し、どん底に陥りました。しかし、思いがけず、ファラオの前に引き出され、ファラオの夢を見事に解き明かし、ヨセフはエジプトの宰相に抜擢されます。そのヨセフが兄たちと再会する場面は実に感動的です。ヨセフは兄たちと和解しました。しかし、その和解は兄たちの罪をヨセフが無条件で赦すという仕方で成り立ちます。ヨセフは復讐せず、復讐心に蓋をしました。先のエレミヤの預言、「私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない」がここに響きます。罪を覆い隠す「贖罪」(キッペール)が潜在しているのです。

 この和解は単なる仲直りではありません。ヨセフは「私をここ(エジプト)へ遣わしたのは、あなた方ではなく、神です」と告白しました(創世記45:10)。人生を遂行する主体がヨセフでもなく、兄たちでもなく、神に転換されています。不可能な和解を可能にする驚くべき信仰告白です。ヨセフ物語の和解は、神がイスラエルを導く壮大な歴史をほのめかし、また同時に、赦しがたい隣人との和解へと私たちを促します。それゆえにまた、旧約聖書は和解の書だと言わざるを得ません。 

(日本基督教団 妙高高原教会代務者)