寄稿

レイテ島にて    荒川 朋子

今年の8月上旬、私はフィリピン中部のレイテ島に赴きました。ある国際NGOの現地プロジェクト視察がその主な理由でしたが、戦後80年の8月にレイテ島に赴くことに特別の意味を感じ、行く前からやや緊張していました。

フィリピン中部に位置するレイテ島は、第2次世界大戦終盤、日米決戦の激戦地として知られています。

実に約8万人の日本兵が命を落としましたが、そのほとんどが餓死、またはマラリヤなどによる病死と言われています。言うまでもありませんが、現地住民もアメリカ兵もこの戦いで多数犠牲となっています。レイテ島に留まらず、第2次世界大戦中のアメリカ占領下にあったフィリピンは日米大戦の戦場となり、最も多く日本兵が亡くなった国で、その数は50万人以上と言われています。しかし、民間人を含むフィリピン人の犠牲者はその倍以上で111万人、あるいはそれ以上とも言われています。湯田大貴さんが「フィリピン便り2・3」(『共助』2025年第4号、5号)で触れているように、当時のフィリピンにおける旧日本軍の残虐性は想像を絶するものと記録、記憶されている一方で、その事実は日本人にはあまり知られていないのが現実です。

フィリピンには120名を超えるアジア学院卒業生がいますが、レイテ島にはひとりもいません。しかし、レイテ島の隣のパナイ島で働く卒業生が、私が訪問する時期にちょうど娘さんの大学の卒業式に出席するためにレイテ島に来ていて、妻の家(奥さんはレイテ島で働いている)にいるというのでお世話になることにしました。

私が訪問することが分かると、その卒業生は、私が滞在するビリヤバという島西部の町には、戦時中犠牲①になった旧日本兵と旧フィリピン兵、そして住民らの合同慰霊碑があることを教えてくれました。さらに、その卒業生の妻はその町出身で、抗日ゲリラの司令官の孫に当たる人で、日比合同慰霊碑が設置されている聖堂を管理する「レイテ西部地域フィリピン戦争退役軍の子孫およびの親族の会」の代表を務めているということを教えてくれました。私はその合同慰霊碑訪問の希望を伝え、8月8日、卒業生夫婦と地元の管理人の女性と共に、ビリヤバの日比合同慰霊碑訪問が実現しました。

聖堂の入り口には合同慰霊碑の由来が日英で書かれた看板が掲げられていて(③)、この場所が戦後50年を記念しての1995年7月に建てられたものであることがわかりました。階段を上っていくと、白く丸い慰霊碑が中心に設置された境内が高台に広がり、振り向くと大きな青空と美しく穏やかな海が目の前に現れました。こんな優しい海と自然に囲まれた島で、数えきれないほどの命が想像を絶する苦しみの末、無念のうちに消えたと思うと、何とも言えない痛みを胸に覚えました。

敷地は草が刈られて、慰霊碑と別にあった2つ建物も白いペンキできれいに塗られ、全体的によく整備されている印象を受けました。ひとつの建物の中にはコンクリート製の棚があり、線香や花が供えられるようになっていました。またその横には日本から持ち込まれたと思われる10本以上の卒塔婆も置かれていました。壁には、この慰霊碑が戦後50年の年にこの島の激戦で生き残った元日本兵とその家族たちの寄付によって建てられたという説明と、建立に寄進した100名以上の方々のお名前がありました。置いてあった『ものいわぬ人々に』(塩川正隆 朝日新聞出版)という本を開いてみると、著者はこの島で命を失った②③旧日本兵の甥にあたる人で、慰霊碑の建設の経緯や、関係者が毎年のようにここを訪れて、地元の2つの小学校に校舎や学用品を寄付したことなどが書かれていました。私がその部分を英訳すると、案内してくれた3人は興味深くそれを聞き、あとでその部分を全部訳して送ってくれと私に頼みました。管理人の女性が家から持ってきてくれた額縁に入った写真や手紙の資料からも、日本人が現地の政府や退役軍人たちの家族と丁寧にコミュニケーションをとってこの慰霊碑建設の実現にこぎつけたことが分かり、関係者の慰霊碑建設への熱く誠実な思いが読んで取れました。

丸い慰霊碑を一周すると、裏側にも文が刻まれていて、「この碑はかつて敵対していた両国とその戦争退役軍人、およびその子孫が、両国間の過去の紛争が二度と繰り返されないことを願う共通の祈りを共有する新たな友好の時代を象徴しています。」という言葉がありました。

文にしてしまえばほんの数行のことですが、かつて敵対し殺し合っていた者同士が、共にこの文章に合意するに至るまでにどんな道のりがあったのかを考えました。再び、あるいは初めてこの地に降り立って関係者を探し求めた日本人の、その時面会したフィリピン人の、その瞬間の空気、交わされた会話、表情……それらはいったどんなものだったのか。どれだけの辛い思いと涙があったことか。どれほどのエネルギーと時間と労力が費やされたことか。そして、本当に互いを許し和解をすることはできたのか。

この慰霊碑は、建設から10年ほどは日本からもよく関係者が訪問して、地元住民との交流も続けられていたものの、近年はその機会も減り整備もされていなかったということでした。しかし、慰霊碑建設から30周年に当たる今年7月、慰霊碑の意義を再確認する集会が「レイテ西部地域フィリピン戦争退役軍人の子孫およびの親族の会」の代表を務めるアジア学院の卒業生の妻の呼びかけにより行われたというのです。地元政府に働きかけて、聖堂や慰霊碑をきれいにし、50人以上の住人が集まり、記憶を新たに節目を盛大に祝ったということでした。呼びかけをおこなった卒業生の妻は、その理由について「戦争中の歴史や記録を記憶に留めることは、それを伝えることができる人が少なくなっている今、特に若い世代に対して行うことが重要だと感じています。平和を築くために努力してきたのですから、私たちは戦争中の教訓を学ぶ必要があります。」と答えました。

今回私が会ったレイテ島の方々は皆、それぞれが戦争につながる辛く複雑な思いと記憶を持っていました。しかし、それにもかからず、彼女のように未来を見据えて、平和維持と構築のために具体的な行動を起こしている人がいることに、またその行動に共鳴し支援する地元政府が存在するということに驚きと深い感銘を覚えました。同時にそのような願いと行動なしには、戦争が無意味なことも、和解と平和への願いも醸成されない、つまり何も始まらないと痛感しました。逆に言えば、どんなに小さくとも、願いに発する何か目に見える行いが伴えば、平和の種は播かれる、実をむすぶ可能性も生まれるというとも言えます。

私が働くアジア学院の前身は東京都町田市にある農村伝道神学校内にあった東南アジア農村指導者養成所です。その研修所の開設の背景には、戦後徐々に復興と経済成長を始めた日本のキリスト教会に対し、アジアのキリスト教諸教会が、農村復興と発展に寄与する農村教会の牧師と信徒の育成(特に農業技術研修)を要請したことがあります。それに応える形で1960年4月に東南アジア農村指導者養成所(のちにアジア学院として独立)が生まれたのでした。

この研修所の設立に関して、アジア学院の元理事長の星野正興牧師は著書『日本の農村社会とキリスト⑤⑥教』の中でこのように語っています。「アジアの諸国、その中でも東南アジア諸国の農村は、侵略した日本軍の軍靴に踏み荒らされ、農産物は日本軍によって収奪され、多くの農民の血が流された地域であった。そのような国々の農村から研修生を受け入れるということは、戦争責任と贖罪の意識なしにはなし得ぬことであった。事実、開設された同養成所に派遣された研修生たちの中には、日本の侵略による戦争被害者が少なくなかったのである。」

そして、こうした背景から生まれたアジア学院の創設には「第2次世界大戦において日本の教会が戦争協力したことに対して贖罪の一端を果たすと言う意味付け」があったと星野氏は説明しています。

アジア学院の創設から半世紀以上が経ちましたが、私たちはこの原点、つまりアジア学院がアジア諸国との和解を願って、日本の教会の具体的な贖罪の形としてクリスチャンたちによって創設されたことを心にしっかり留めながら日々の務めを果たさなければならないと思っています。今でこそアジア学院は世界中から農村の指導者たちを研修に呼んでいますが、それでもアジア学院がその名前に「アジア」という言葉を使っているのは、アジア学院がアジアの中の日本にあって、アジアの人々との和解のためにあることを忘れないためでもあると思っています。

しかし、戦後80年が経ち、原点を「心にしっかり留めて」「忘れない」ための努力は、これまでにも増して必要となってきています。アジア学院で、アジアの友と共に生活し、研修に臨んでいても、それだけでは不十分だと感じます。過去の振り返りと謝罪、そしてそれに立脚した行動が伴わなければ、後に継承されない可能性もあるとの危惧があります。

フランシス教皇は2019年に広島を訪問した時に、次のように言いました。「思い出し、ともに歩み、守る。この3つは倫理的⑦命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。ですから、現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません」。

レイテ島で私が卒業生の妻の行動に感動したのは、この3つのことを誰に頼まれるでもなく、自らの責任として実践しているからだと思いました。彼女は「レイテ西部地域フィリピン戦争退役軍人の子孫およびその親族の会」の代表を務め、合同慰霊碑の整備・保存をすることで、過去の教訓を「思い出し」、苦しんだ人たちと、また次世代の人々と「ともに歩み」、慰霊碑とその意義を「守る」ことを実行していたのです。

では、私の「思い出し、ともに歩み、守る」は何なのか?

今年の『共助』5号の巻頭言で書きましたが、私も第2次世界大戦でアジアの国々に出征していった兵士を祖父にもつ日本人の一人です。母方の祖父は満州に軍人として赴き、私の母はそこで生れました。父方の祖父は南方で従軍しました。まずは、そうした日本人の子孫であることを自覚し、謝罪の心を持ち続け、自分が知り得た戦争の歴史を記憶し、語り継ぎ、二度と同じ罪を、自分が、自分の愛する人が、そしてすべての人間が繰り返さないことを、アジアの友たちと、また次世代の方々と一緒に、神に切に祈り続けていきたいと思います。

レイテ島のまぶしい太陽と、海の青さと、人々の明るい笑顔と共に、心に刻まれた大切な教訓です。

(アジア学院常務理事)