戦後80年を覚えて 北村千尋
私は1939(昭和14)年2月、兵庫県(日本海沿岸)浜坂町(今の新温泉町)に生まれた。敗戦直前の2年間、亡くなられていた高田という牧師夫人を園長とする保育園に通った。あの時期にキリスト教信仰のもとに園を経営することは容易ではなかっただろう。心無い者が園舎に小石を投げたりもした。
彼女は夫の召天後、郷里(会津)への退去を考え母校(聖和女子学院)へ赴いたとき、ある主日礼拝の中で、今の務めにとどまり続けよとの御声を聞いた。そして終わりまで踏みとどまり、その地域の信頼と尊敬を勝ち取り、良い証を立てることとなった。私は彼女との出会いを通して福音の方へと導かれて行った。弱い迷いやすい罪人にとってこれはまことに感謝すべきことであった。
私の家庭は男4女3の子供のいる9人家族。私は末っ子で、兄二人は病気で早逝。家業は製菓販売で、かつては数人を雇いかなり盛んであったらしい。しかし戦時の厳しい状況下で廃業を余儀なくされた。町で待針製造が行われていて、その工程の一部を我が家は人を雇い請け負った。父は地域の鉱山に徴用され、長姉は阪神方面の軍需工場で働き、次女は 学校務め。兄は学生。すぐ上の姉は家にいた。当時はどの家でも食糧調達に難儀し、家庭菜園や買い出しにも忙しかった。
私は敗戦の年に国民学校へ入った。学校では多分、朝は全校一斉に奉安殿の前に整列し宮城遥拝。運動場は一面の芋畑。海が近かったので全校で浜辺へ行き、海水を汲み製塩に努めた。町のお寺には都市部から疎開学童が来ていた。近所のあちこちの家は戦災を避け親類を頼って来て、二所帯住まいもあった。沖縄、東京等、広島、長崎は惨憺そのものであったことを後で知ることになったが、田舎では空襲の脅威はそれほどではなかった。それでも山陰本線の列車が敵機襲来を避けてトンネルに逃げ込むのを目撃した。
私たちの町からも兵士出征や、小隊の行軍の情景を見ることがあった。我が家のすぐ前の家の長男がある日、近くの鳥取市に駐屯する部隊の小隊として我が家のすぐ横の道を背嚢背負って通り過ぎていくのを町の人たちと共に見送ったことがあった。彼は私を見出して親しみを込めた眼差しで無言の挨拶を送ってくれたように思えた。あの戦争で多くの青年たちがそのまま戦地から帰らぬ人となった。
あの敗戦の日の玉音放送は我が家でも家族共に聴いた。敗戦後の学校では使用教科書の軍国主義的記述の墨塗り潰しの作業。新聞紙のような代替教材の配布があった。ほとんどの国民が皇国史観を強制されていたが、今や敗戦という事態の中で空腹のひもじさと虚脱感にうちのめされていたのではなかろうか。やがて学校は小学校と改称され、一億総懺悔、民主主義、進駐軍などいう言葉が巷でも聞かれるようになった。
ある日、天皇の行幸列車が山陰本線にもやってきて私たちはその通過駅近くの沿線に並び立って見送った。後日、心を奪われるように味読したものの中には、朝鮮キリスト者への神社参拝強制の記録、安利淑著、『たといそうでなくとも』(待晨堂)、及び飯沼二郎編『熱河宣教の記録』(未来社)などがある。
統一ドイツ時の大統領であったヴァイツゼッカーの演説の中に「過去に対して目を閉じる者は、現在を見る目を持たないのであります。かつての非人間的な事柄を思い起こしたくないとする者は、新しく起こる非人間的なものの伝染力に負けてしまう者なのであります。我々にとって大切なことは、我々自身の内部に、自らを戒めるための記念碑を建てるということであります。」とある。(「一九八五年五月八日」。)
世界が今、再び帝国主義的な暗雲に覆われかかる危機にあってそれに抗って、いかにして国連憲章や日本国憲法の精神を堅持することができるか。イエスのみ言葉(ヨハネ8:31~32)にとどまるためにどれだけ自らの中で戦うことができるかが問われていることを感じる。 (日本キリスト教会近畿中会 教師)
