「佐久学舎」学び・祈り・共同生活 平野陽子

佐久学舎については、私の通う中渋谷教会の様々な方々から噂はかねてから伺ってはいましたが、参加したのは昨年が初めてでした。一週間聖書研究をする合宿のようなもの、ということ以外、具体的には何をするのか、どのような人が集まるのか想像がつきませんでした。そもそも聖書研究というのもあまり経験がなく、当日になるまで少し心配していました。

そして太陽の熱が肌を焦がすほどに暑い東京の喧騒を離れ、佐久の涼しく開放的で朝には鳥の、夜には虫の声が聞こえる静かな学び舎へと、私たちは招かれました。

実際に集まったのは延べ二〇人ほどで、社会人だけでなく大学生も七名ほど参加し、その中には無教会派の方もカトリックの方もいらっしゃいました。

中渋谷教会から参加された方もいらっしゃいましたが、初めてお会いした方が大半で初めは緊張していました。

しかし、あるときに川田先生が次のようなことをおっしゃいました。

「佐久学舎は聖書研究だけでなく、参加者全員が共同生活を営み、祈る。学びと祈りと共同生活、この三つがなければ意味がない。」   このお言葉を聞いたとき、私はそうか、と思いました。これがきっと佐久学舎のいちばん奥深くにある大切なことに違いない。川田先生のお言葉が心にすっと染み込んできて、それから少しずつ緊張が解けて、皆さんと交わりを持つことができました。

そのうちに、学びと祈りと共同生活という三点の中でも、特に祈りが重要なのではないかと私は思うようになりました。聖書研究だけでは、御言葉の意味を頭で理解するだけで終わってしまう。祈りを合わせることで、神様に立ち返る。互いによく知らない者同士が一週間同じ屋根の下で寝食を共にするというのは大変なことです。その中で協力し合って過ごしていけるというのは、まさに祈りの力によるのではないか、と私は感じました。

カトリックもプロテスタントも無教会派も福音派も関係なく、そこに招かれた私たちは皆、同じ神様を信じているというその一点を支えとして、祈りを合わせる。しかしこのただ一点が持つ力のなんと大きいことか。早天祈祷会のとき、聖書研究のとき、食事のとき、学舎での様々な営みの折に触れて祈るたび、神様がいつも私たちと共におられることを、あれほど強く感じたのは初めてでした。

また、ほとんど中渋谷教会しか知らない私にとって、教会には様々なものがあるのだということは今まで頭で理解するだけでした。ところが実際に中渋谷教会以外の方々と学び、祈り、生活する中で、ほんの少しだけですが教会はそれぞれで様々なことが異なるのだということ、それでも表し方は違うけれど私たちが出会った方は同じだということを実感しました。

神様は私たちそれぞれにふさわしい教会や共同体にたしかに導いてくださる。そのことに改めて気付かされた思いでした。

様々な年齢、職業、学校、宗派の方々とあれほど濃密な時間を過ごすことができたのは神様の恵みとしか言いようがありません。あの一週間がどれだけ豊かで貴重であったかを振り返り、思うにつけ、神様を讃美せずにはいられないのです。

御心ならば、神様が今年の夏もまた、あの小さな学び舎に私たちを招いてくだされば幸いです。