中高年伝道という課題 土肥 研一
教会は、子どもたちや若者への教育に熱心に取り組んできた。共助会も若い人への伝道に心を砕いてきたし、今もそうだ。
教会はまた高齢者を大切にしてきた。特に、高齢化が著しい日本社会にあって、今後ますます、日本の教会は高齢者への働きを期待されていくだろう。私が働く目白町教会でも、70代、80代になって教会を訪ねてくださる方が増えている実感がある。若いころにキリスト教学校に通った方。若い日に洗礼を受けたけれど、いろいろな理由によってその後、何十年も教会を離れていた方。そのような方々が教会を訪れてくださり、その中から洗礼を受ける方や、転会してくださる方が、幾人も与えられてきた。今春のイースター礼拝で洗礼を受けた方も、そうした一人だ。
では、その間の世代はどうだろうか。若者とは言えず、と言って高齢者でもない。私自身、51歳になった。いわゆる「中年」の世代である。私はこの数年で、突発性難聴を経験し、内蔵の慢性疾患の診断も受けた。確実に体が衰えてきているのを感じる。しかしそれに反比例するように、様々な場所で担う責任が重くなってきている。その中で、もがいているのは、私だけではないはずだ。教会は、この世代に心を寄せ、語るべき言葉を磨いてきただろうか。
心理学者のユングは、中年期を、「大切な人生の転換点」であると言う。同じく心理学者の藤掛明も、中年期は、思春期以上に「危機の時代」であると言う。まさに福音を必要とする世代なのだ。
午前に上昇してきた太陽が、正午を過ぎて下降していくように、中年期は上昇から下降へと転じる時だ。そこには生き方の転換が必要なはずだ。それを意に介さず、人生前半の「強行突破型」の生き方を、中年期にも強引に推し進めようとするときに、人は行き詰まり、危機に陥るのだろう。
最近、高倉徳太郎が気になる。50歳を目前に自死した彼は、まさに中年期の危機の犠牲者だった。ヘンリ・ナウエンも、中年期に深刻な精神的危機を経験したのだった。私はまず、改めてこの二人に学ぼうと思う。そして、中年期伝道ということを、ぜひ自分の必要と重ねながら考えてみたい。
私は今、神学校で「キリスト教教育」を教えている。キリスト教教育と言えば、これまでは若い世代への教育が主たる関心であったが、私は、未開拓の領域である、中年期そして老年期へのキリスト教育に関心がある。共助会の新しい課題にもなるだろうか。(日本基督教団 目白町教会牧師)