発題と応答

戦後80年まで生きてきて― 下山田 誠子

 中国東北部満州は、当時は日本が占領して統治していた。私は、父が満州国の官吏であったので首都新京(現長春)で生まれ3歳で敗戦となり、生まれたばかりの妹と3人で引き揚げを余儀なくされた。

 父が出張中でその帰りを待ったため私たち母子は難民となってしまった。官舎には情報が入って家財道具と共に貨車を仕立てて内地に引き揚げる事ができたという。母は妹を胸に、リュックを背負い私の手を引いて無蓋の貨車に乗り、止まれば、ひたすら内地に向かって歩いたという。力尽きて朝鮮平壌(ピョンヤン)に着いて収容所に入れられた。ソ満国境からの開拓団の女性や子供、老人と一緒だったという。

 乳の出ない母の胸で妹、淑子は泣き声も立てずに短い生を終えた。小さな箱に亡骸を入れ朝鮮の人に 託して母が激しく泣いたことを覚えている。 私は不安だっただけで何の悲しみもなかった。母は近くの農家に働きに出て何かしらの食べものを貰って生命をつなぎ、秋も深まった頃、米軍の輸送船の船倉につめられて佐世保に帰国した。父の郷里信州に帰って栄養失調の私は小学校入学を遅らせねばならなかった。

 長ずるに従って、逃避行の惨状の記録を読み、人間の悲惨さとたくましさに驚き、ようやく相手の韓国・朝鮮・中国などの国の受けた被害に目を向けるようになった。沢山のドキュメントがあり、自分の無知を恥じるばかりだった。少しずつ資料などを読み、集会にも参加して学ぶなかで侵略戦争の無謀と罪悪を知り、「私の責任ではない」などと責任逃れのできないことを知らされた。「いつまで謝まればいいのか」と開きなおるのではなく、許してくれるまで心を尽くして謝まり続けなければならないのではないだろうか。こんな年齢まで生命を頂いている私として、善意のたよりを毎年を送って下さった人々へ恩を忘れずにいたいと思う。

 朝鮮ピョンヤンに難民日本人墓地のあることを調べて下さった方から地図が送られてきて妹、淑子の名前がフルネームで明記されていた。感謝は尽きない。訪朝が許されたら、お詣りして母に報告できたらどんなに嬉しいことだろうか。     
 (松本共助会) 

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