京都共助会・報告

京都共助会2026年2月~5月例会報告    報告者・片柳榮一

 2月例会では、奥田成孝先生の「『一筋の道』を辿る」により、井川さんに発表いただきました。「最後に私がまだ学生時代に心中に願ったことを記して終わりたい。当時は将来どのような道を歩むのかまだ全然定まらない時であった。……ただ将来如何なる道を歩むかわからないが、棺の蓋を覆う時自らも周囲の人々からも、私が何ものであったかといわれるより「この人は生涯キリストを愛しキリストに愛されて人生を終わった人である」と自他共に認められて生を終わりたいと心に願ったことである。今八十三歳の今日余生どれほど許されるか自らわからないがこの学生時代の念願が思い新たに心中に浮かぶことである」。出席8名

 3月例会は小笠原 亮一先生説教(共助誌掲載「苦難と栄光の共同体」1981年10月11日配布)を、片柳榮一さんが発表致しました。「(森 有正先生は)自問自答するように『日本が本当に苦しむのは、むしろこれからだと思う』と語られました。……私たちが、ますますきびしい時代に足をふみ入れていることは確かでありますが、本当に苦しむとはどういうことなのでしょうか。単に国の内外の政治や経済の諸関係において苦境に立つというということではないでしょう。幕末や敗戦の頃、私たちの民族はきびしい国難に直面したわけですが、本当に苦しむというよりも、巧みなチャンスを利用して要領よくきりぬけた。もはやそのような要領のよいきりぬけが不可能な事態がやってくる、というのでしょうか。私たちの想像を絶した、底知れぬ苦悩が私たちを待ち受けているというのでしょうか」出席8名

 4月例会は小笠原 亮一先生の説教「苦難と栄光の共同体」について、片柳榮一さんが発表致しました。「『あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のためにくるしむことをも賜っている』(ピリピ1:29)。苦難は、信仰者にふりかかってくるあれこれの出来事というよりも、むしろこの世における信仰者の生の基本的にして根本的な規定なのです。この世における信仰者の生は、キリストと共なる、キリストのための苦難という性格を持つ。『賜っている』というのは『恵みとして与えられている』ということです。信仰が、救いのために与えられるばかりではなく、苦難もまた救いへの道として与えられているのである」。出席7名

 5月例会では5月24日小笠原 亮一先生の説教「キリストの愛、我に迫れり」について、下村喜八さんに発表いただきました。「以上の森先生の文章を読んで驚かされるのは次の二点である。第一は、信という場合に、私たちがイエス・キリストを信じる信仰についてよりも、イエス・キリストが私たちを信じてくださる、その信について語られている点である。キリストが、命をかけて私たちを信じぬいてくださる、その信に私たちはついに押し切られてしまうというのである。……

 第二は、そのようなキリストによって信じられていることが、嬉しい、喜ばしい、というよりも、苦しい、と語られている点である。キリストの徹底的な信に、『もだえ苦しむ』とすら語られている。生命をかけてまで信じられては息苦しくしょうがない、ほっておいてくれ、という思いすら出てくる」。出席9名