キリストに在る友をして語らしめよ。飯島 信
私は今回の説教題に「キリストに在る友をして語らしめよ」と記しました。
2人の先達ではなく友と呼びますが、彼らの言葉から、共助会の綱領とも言うべき「主に在る友情」と「キリストの他、自由独立」を見つめ直したいと思います。友とは、初代委員長であった山本茂男と第2代委員長の奥田成孝です。
再刊された『共助』創刊号に、山本は「森明と共助会の精神」と題して次のように記しています。
「共助会は、教会でも、教派でもない。同志は、それぞれの教会に在って、誠実に主に仕えんとするものである。しかし同時に、同じ信仰と精神とを有する者が、個々の教会と教派とを超えて、同志の交りを結び、真に日本伝道のために、祖国の新しい建設のために、引いては世界の平和のために、使命を担
うことは、まことに重要なことと信じている」と。
簡潔に述べられた山本のこの言葉に、共助会の精神を特色づける二つの柱が語られています。「教会でも教派でもない」とは「キリストの他、自由独立」を意味し、「同志の交り」とは、「主に在る友情」を指し示します。では、山本が言うところの「同志の交り」、すなわち「主に在る友情」とは何かです。このことについて、奥田先生が書いた文章を見てみたいと思います。『共助』1954年6月号の「共助会総会に際して」の一文は、次のようなものでした。
「私は今回の総会にこの話の任を依頼され乍ら珍しく長びいた健康の不調で医師のすすめもあて教会の責任も暫く休ませていただいて休養を致すことになり、従って東京のこの責任も一度おことわりをしたのであったが、私の心中に抗しきれず、甦ってきたのは森先生からうけた共助会を通しての基督に在る友情であった。実に30年の年月をこえて生ける今日の事実として私の心をとらえているのを経験した。」
当時、奥田先生は健康の不調から教会の責任も離れていました。京都に在住ですから、東京で行われる共助会総会の説教も断られていました。しかし、一度は断ったものの、心中に甦ることがありました。それは、森明から奥田先生らに示された「基督に在る友情」であったと言うのです。文章は続きます。「大正12年秋、森先生が京都に共助会の伝道にみえたとき度々語るように先生は健康勝れず汽車をさけて神戸まで船にのり、京都にみえたのであった。帰途は列車の混雑で先生は洗面所に一夜をあかされたときく。翌13年の秋にも京都にみえ様とされた。その時も先生の健康は極めてすぐれなかった。それでもゆこうとされるのに母堂が側からそんなにまで京都にゆかねばならないのかと問われたとき、『お母さん、友達というものはそうどこにでもあるものではないのですよ』といわれたという。遂にそのとき先生は京都にみえなかった。京都には当時ここにおられる鈴木淳平兄、岩淵止兄、私の他2、3人の仲間があったにすぎない。皆当時私共は学生であった。そのとるにもたらぬ学生数名を心にとめて以上申したような友情をそそがれた。講演もなさる予定ではあった。併し先生は引きうけた講演の責任もあるからゆくとは云われなかった。茲に京都の私共をして『人はその友のために生命を棄つこれより大いなる愛はなし』との御言葉、又『一人の友のあるところ千里を遠しとせずしてゆく』という共助会の友情を身をもって示されたのであった。勿論この友情の背後には如何に先生が共助会の使命を信じておられたかという事がみられるが、この共助会の使命を信じ友を愛し求めて生命をかけた先生の友情が30年の年月をこえて私の心に生きてきたというより生きているのを覚える。」
このように記した後、さらに次のように語ります。
「私は不健康と云い乍ら、自らの覚悟と奮発心のたらぬ事を深く恥じ教会にもすまぬ感を覚えつつ決然上京致すことにしたのであった。これ一つに森先生の共助会を通しての基督に在る友情、又共助会の使命を信じてこの団体のために生命をかけた沢崎堅造、伊藤栄一諸友の祈りの支えであることを覚える。
この共助会の友情と精神が若し強く脈うっていないならば如何に組織がととのい規約ができ事が拡張しても共助会の精神は失われたといわねばならない」。
奥田先生に生きていた「主に在る友情」です。
次に、「キリストの他、自由独立」についてです。
このことに関連して、奥田先生は同じ文章の前半部分で次のように記していました。
「……ふと私の心に浮んだのは森先生の師である植村正久先生のことであった。それはあれ程教会を愛し教会の中に己を没して生涯を戦われた先生があの東京神学社をたてられ福音新報を出され、而もかねて、それは先生の属され生涯をかけられた旧日本基督教会の所属の神学校でもなし、又その機関誌でもないという事を承っていた事であった。実は私はここに深い関心を覚えて、『植村正久とその時代』についてこの二つの項目あたりの記事を調べた。併し、余り思った程の多くの材料があったわけではなかったが、私が非常に興味を覚えたのは森明先生が共助会につき『何れの教派にも属せず基督のみ自由、独立』と言われたその精神が実に植村正久先生からきているといえるのではないかという事をみい出した。」
共助会の一方の柱である「キリストの他、自由独立」は、植村正久の影響を強く受けているとの奥田先生の指摘は、共助会に生きる私たちの在り方を深く示唆しています。植村は、日本最初のプロテスタント基督教会である一致教会の創立時のメンバーとして、その設立趣意書で次のように述べるのです。
「吾輩は単に基督を宗とし、聖書を標準とし、毫も宗派に偏せず、又宗派的の名称を用ひず、自ら称して日本國基督教会いふ云々。斯くの如く設立せられたる初実の教会は、政治簡易に、信條単純
にして、其の組織極めて自由寛大なるものにありしなり。」(「日本基督教会と云へる名称及びその由来」
『植村全集 第5巻 教会篇』180頁
・『共助』2007年5 月号21頁)
つまり、植村は、他の日本人信徒らと共に彼らが設立する教会を何れの宗派にも属さない無宗派の教会とします。そして、最初期の日本のプロテスタント教会は、何れもこの方針に基づいて設立されて行きました。その経過について植村は記します。
「明治6年、同7年に於て今の東京新栄教会、神戸教会、大阪教会相次いで設立せらる。皆横浜初実教会と主義を同じうし、無宗派の精神を抱き、簡易信條の規約に基けるものなり。是等教会は、相約して日本基督教会なる名称を用ゐ、自今我が國に外國宗派の成立を拒絶せんとの覚悟にてありたり。」(『共助』2007年5月号21頁)
宣教師の働きによって生まれた日本の教会が産声を挙げた時、なぜこのような無教派の教会が可能であったのかですが、それは、植村らを導いた当時の宣教師たちの無教派を貫こうとする姿勢でした。即ち、「此の事に付き、其の公平無私なる処置を長く日本の教会史に記憶せらるべき人は、バラ氏、タムソン氏、今の組合教会のグリーン氏、当時大学の教授たりしグリフォス氏等なり」と植村は記すのです(注1 。)
私は、奥田先生が改めて指摘したように、「キリストの他、自由独立」とは、十字架のキリストのもとにあって、全ての者は一つとなって神に仕えるとの森明の祈りが込められたものであると思います。
「主に在る友情」、そして「キリストの他、自由独立」。
私たちはこのような先達らに導かれつつ、十字架のキリストの招きに応える歩みを全うしたいと思います。
最後に短くこの夏の夏期信仰修養会について触れたいと思います。
昨年行われた韓日修練会のテーマは、「和解」でした。
この「和解」は、実は、テーマとして掲げるか否かを問わず、韓日共助会の交わりの基底を形づくっていると言えると思います。先に奥田先生は、「共助会の友情と精神が若し強く脈うっていないならば、如何に組織がととのい規約ができ事業が拡張しても共助会の精神は失われたといわねばならない」と言われました。同じように、韓日の、和解への祈りと実践が交わりの基底を形づくっていないなら、韓日修練会の精神は失われるといわねばなりません。先の「朝日新聞」に掲載された郵送による全国世論調査で、日本が戦争や植民地支配を通じて被害を与えた国や人々に、謝罪や償いを十分にしてきたかどうかの質問で、58%、6割に近い人々が「十分」であると回答しました。
しかし、私たちは次のように思うのです。
人と人との過ちは、加害者の側の被害者に対する償いの信実さによって許されることがあるかも知れません。しかし、過ちそれ自体を消し去ることは出来ず、人はその過ちを背負って生きなければならないと思います。私たちがそれでも生きて行くことが出来るのは、十字架のキリストがその罪を赦し、共に負ってくださるからであり、かつて中国の、朝鮮半島の、そして東南アジアの人々に対して犯した許されざる罪を自覚することによって、初めて歴史に耐え得る和解に向かう信実な交わりへの一歩を踏み出せると思うのです。
和解について小笠原亮一は次のように述べます。
「和解とは、二つの人格が真に出会うこと、真心こめた語り合いが成立すること、充実した真実な交わりのことです。敵対させる力、分裂させる力、ひきさき、へだてる力が働くなかで、真の出会いを実現する道は十字架の道であり、敵を愛する道が平和をつくり出す道で」あると。(「ろばの子に乗って」『共助』1982年1月号、2頁)
そして、小笠原さんは、自分の経験から和解への道を語ります。
「御子が私のために死んでくださった。そのような愛においてしか、私は神に帰り行くことができなかったのです。真実な出会いがどのようなものかを、キリストにおいて味わい知った者は、へだてられている他者との真の出会いをなすため、敵対せる世界に平和をつくり出すため、十字架の道を恐れてはならない」と。(『前掲書』)
先ほども述べましたが、この夏、韓南大学の裵貞烈先生と学生たちが修養会に参加します。
私たちは私たちの世代の出会いがあり、若者は若者の出会いがあります。
それぞれの出会いの事実をしっかりと共有しつつ、明日に向かって共に進める道を見出す、そのような修養会でありたいと思います。
祈りましょう。
(注1)これらの宣教師や日本人信徒らの決意であったいずれの宗派にも属さず、無宗派の教会である日本國基督教会として日本の教会はあり続けようとの願いは、しかし、後から来日した宗派的宣教師、そしてアメリカから帰朝した新島襄によって打ち砕かれて行きます。そのことについて植村は記します。
「本邦の信徒の奮発し居たるにも拘らず、是等外國宣教師の艱難を忍びつゝ尽力したるにも拘らず、日本の伝道好景況なりとの報知、外國に達すると同時に、宗派的の宣教師、頓に増加し、東西各地に宗派的教会を設立したり。此の所に於て宗派を却け、日本純粋の基督教会のみになさんとする志を抱ける輩は大いに其の鋭気を挫かれたり。さらぬだに前途茫々たるものを、此に一つの手酷き鞭を加ふる出来事こそ起りたれ。其は他にあらず、明治7年、新島襄氏帰朝す。予等は同氏帰り来らば、必定無宗派の主義を賛成し、非常に大いなる援助を與へらるゝことならんと楽しみ居たるに、氏は大いに無宗派主義を非難し、外國の宗派に属するに非ざれば事業挙がらず、伝道の前途望みなしとて飽くまでコングリゲーション主義を固執し、宗派的の運動をなしべしと明言せり。」
(「日本基督教会と云へる名称及びその由来」『植村全集 第5巻 教会篇』182頁・『共助』2007年5月号22頁)
(日本基督教団 小高伝道所・浪江伝道所牧師)