「基督教共助会」創立100周年記念シンポジウム

【応答2】何が人を「人格」にするのか―今、教育の担い手に求められていること―小友 聡

4人の先生方の発題を聞き、それに応答するのが私の務めです。発題はいずれも感銘深いものでした。安積先生の話に最後まで引き込まれ、人格と人材とは次元が違うのだということに気づかされました。新江先生は御自分の破れを正面から見つめ、受け止めて、そういう自分を生きようとする、その姿に私は感動しました。三島先生は、なぜ自分が教頭に選ばれたのかと問い、もがきながらその務めを自ら引き受けようとする誠実さに心を打たれました。最後の鈴木先生は、聴力障がいを持つ生徒さんたちを全力で抱きしめ、言葉にならない呻きを受け止める真実な人格教育をしておられます。4人のいずれの先生たちも、何が人を人格たらしめるのか、という問いに対して、体験から真摯に誠実に答えておられます。あちらこちらきしんだ状況にある現在の日本の学校教育において、このような真実な先生方がおられることに、しかも全員がキリスト者であることに、私は大きな希望を見出しました。また、同じキリスト者として先生方を大変誇らしく思いました。

 

1 人材ではなく人格

 

今回の主題「何が人を人格にするのか」という問いに対して、人材ではなく人格、という私なりの着地点を見出しました。安積先生はそれに触れておられます。教育の現場においては、必要とされる人材があります。生徒を適切に指導し、適切な授業ができ、保護者のクレームなどの諸問題に対して適切に対応し、また、上司や同僚と適切な人間関係を保ち、事務処理能力があり、健康で、誰に対しても好印象を与える、などなど。こういった「人材」が教育現場では必要とされ、教師誰もがそのように必要な人材であろうと、人材になろうと、必死にもがいています。けれども、そのような人材は、言うまでもなく代替可能です。「私」ではなくてもほかにもっとすぐれた人材がいれば、「私」は必要なくなってしまいます。要求に応えられなければ、「私」は外されて、人材派遣会社から代わりの人材が派遣されるでしょう。かくして人材は「私」を相対化し、「私」の誇りも存在も奪い取ります。現在の教育の世界では、この人材が必要とされています。

しかし、そのような人材が教育において最高の価値なのでしょうか。人材ではなく、人格としての「私」にならなければ、代替不可能な掛け替えのない人格としての「私」でなければ、教師は学校教育の現場で働く歯車にすぎなくなるでしょう。そのように、人材ではなく、人格であろうとする闘いがここで問われるのではないかと思います。それでは、「私」を人材ではなく、人格にするものとは何でしょうか。そういう問いが改めて突き付けられます。

 

2 「私」という掛け替えのなさを「私」に与えてくれるのは、強烈な自意識や自己覚醒ということでしょうか。

 

それはもちろん大事なことですが、単なる自意識や自己覚醒だけでは、過酷な教育現場において潰れてしまうのではないでしょうか。キリスト者にとっては、むしろ、この「私」が召されている、選ばれてここにいるのだ、という召命感ということが決定的に重要ではないかと思います。召命感はすなわちコーリングCalling です。ただし、これを天職と訳すことは適切ではありません。天職と訳すと、自分に見合った、自分にふさわしい職業という意味になり、水平次元が際立ち、神からの召命という垂直次元が見えにくくなるからです。この「私」がいろいろな弱さや欠けを持っているにもかかわらず、自らの無力感にどうしようもなく苛まれるにもかかわらず、それでもここに、この学校に、このクラスに、この生徒のために、主イエスから教師として遣わされている、という召命感がコーリングです。そのコーリングということが、「私」を人材ではなく、人格にするのではないでしょうか。このコーリングがなければ、「私」という人格は単なる人材にすぎなくなります。あえて申し上げますが、自分の有能さをアピールし、ここで業績を積んで昇進のための踏み台にしようとする自意識は、結局、自分を人材にすることです。そういう自己実現を非難することはできませんけれども、教師がそのような人材を目指すならば、AIがやってくれる教育マシーンと同じになってしまうのではないでしょうか。

 

3 フランクルから考える

 

教師として召命感を持って生きるためにはキリスト教の信仰が必要です。けれども、神がわからなくても、コーリングということはあります。日本においてそのことを考えさせられます。神がわからなくても、自分が問われている存在だということを知ることができます。これについては、精神医学者ヴィクトール・フランクルの「問いのコペルニクス転回」が手がかりになります。「人間は生の意味への問いを発すべきものではなく、むしろ逆に人間自身が問いかけられているのであって、自ら答えなければならない」とフランクルは言います。人は存在の深みから自らが問われ、それに答えて生きる責任があるということです。

「私」がここに遣わされている。偶然かも知れないが、決して偶然ではない。不思議な出会いがあって、この学校に、同僚に、生徒たちに自分が遣わされて、ここにいる。一度限りの、今ここでしか出会うことができない、掛け替えのない出会い、カイロスがこの学校で与えられているのではないでしょうか。どんな教師もそういう出会いを与えられています。だからこそ、ここでなすべき自分の使命とは何かが問われます。もがきながら、それに全力で懸命に応えようとします。失敗もするし、結果も出せない。逃げるわけにはいかず、自分が歯がゆくて情けなくなる。けれども、それでも自分に与えられた使命を懸命に果たそうとする「私」の魂の葛藤が、人を人材ではなく、人格にするのではないでしょうか。たとえキリスト者でなくても、そういう仕方で、人材ではなく人格として真摯に教育を担うことができるはずです。

コーリングに寄せて、札幌農学校の副校長であったクラーク博士について触れます。彼は強烈なコーリングによって明治初期に、いわゆる教育宣教師として札幌に赴任しました。たった7か月の学校滞在で、日本語もほとんど理解できなかったにもかかわらず、多くの学生に決定的な人格的影響を与えました。その中から後に日本を担う人々が輩出しました。クラークは、しかし、いわゆる成功者ではありません。にもかかわらず、彼の人格は彼を日本における偉大な教育の担い手にしました。人格とは言語を媒介にしますが、言語を超える言葉というものがあるのです。クラークからそのことをしみじみ教わります。

以上が、「何が人を人格にするのか」という問いに対し、4人の発題を踏まえての私の応答です。(東京神学大学教授 中村町教会牧師)