証し

仰ぐ十字架、背負う十字架 朴 大信

【誌上夏期信仰修養会 証しⅠ①】

「この世の禍まがさち幸いかにもあれ、栄の冠は十字架にあり」(讃美歌331、日本基督教団讃美歌委員会、1954年版)。

コロナ禍でやむなく中止となった今年の修養会。参加を楽しみにし、証者の一人にも立てられていた者として、今でも残念でなりません。しかしこの誌上での交わりが許されている幸いを想う時、あらためて雑誌『共助』がもつ役割と歴史の重みを深く心に留めます。そして修養会が開催されなかったこの現実を通して、神が私たちに問い、かつ開いてくださっている新たな道を、共に見つめて歩み出せることを願い続けています。

ところで、いっとき日本中のお店からトイレットペーパーが無くなる、というニュースが少し前に話題となりました。かつてオイルショックの時もそうだったと聞きます。歴史は繰り返す。それは、変わらぬ人間の姿がそこにあるという厳然たる事実が物語られているようです。ある人がこの事件を端的にこう評しました。「あれは単に、店からトイレットペーパーが無くなる出来事だったのではない。私たち人間から他者性が喪失した悲劇なのだ!」。自戒を込めて、まさしく的を得ていると思いました。別の言葉で言い換えるなら、あの事件に象徴されていたこととは、人間の共生意識と尊厳が見失われたということ。聖書の言葉で言い直せば、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12:31)との主の教えが、内在化するどころか、忘却の彼方へ葬り去られてしまったということ。そう思えてなりません。

思うにコロナ禍とは、それ自体は世界全体を死の恐怖で覆い尽くす新たな顔(闇の勢力)でありながら、しかし皮肉なことに、もう一方では、もともと潜んでいた人間の深い闇を明るく露呈させる力として迫って来ていることもいよいよ痛感しています。これまでやり過ごされ、見て見ぬふりされてきた人間の罪の問題。愛の問題。要は「我、いかに生きるか」という根本問題が、今ここでもやはり問われている気がしてなりません。けれどもまた、この問いを真剣に受けとめてゆくところに、この世の物差しで計られる損・得の次元を超える私たちの歩み、共助会の歩み、そして教会の歩みが、新しく命を得ていくと信じます。

さて、冒頭の一文は、私がこれまで折に触れてその意味を味わい、神の御前に立ち止まっては主の十字架を仰がんとする、いわば自らの原点に立ち返らせてくれる讃美歌の歌詞(第4節)です。私たちがこの世で経験するあらゆる損得・あるいは禍わざわいや幸い、それらがどうあろうとも、輝く栄光の冠はただ、十字架の主イエスにこそあり。

徹底して、私たちの目を十字架に向けさせる励ましと慰めの言葉だと思います。この世のどんな喜びも、悲しみも、またどんな光や闇をも越えたところに立つ十字架。それが、十字架の真理なのだ。そう教えられます。そしてこの言葉が讃美歌全体の結語となって、「仰ぐべき十字架」が力強く告白されています。ところが、この讃美歌の歌詞全体をよく味わい直してみると、私たちが「負うべき十字架」についても繰り返し言われているのです。例えば2節がそうです。「十字架を負いにし 聖徒たちの御国に喜ぶ 幸やいかに」。続く3節でもこう歌われます。「我が身も勇みて 十字架を負い 死に至るまでも 仕えまつらん」。つまり十字架を負うことの幸いが讃えられ、それ故、十字架を負うことの決意が告白される。そうしますと、この讃美歌の結びに向かって、そしてまた人生の結びに向かって、私たちが本当に主の栄光の十字架を仰ぐことができるのは、単にその途上で立ち止まって、手放しの状態で遠く眺めるような時ではない、ということなのかもしれません。むしろ私たちもそこで十字架を負う。たゆまず負い続ける。そんな歩みを踏み出すところに、仰ぐべき主イエスの十字架の真実が見えてくるのではないか。

……そう思って聖書を開き直してみると、確かに主イエスはこう仰っていました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)。そしてまた、こうも仰います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛くびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28~30)。

特に注目したいのはマタイの言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。これは至る所でよく耳にする、主イエスの大きな慰めと招きの言葉です。けれども主の言葉は、ここで終わっていません。その直後に、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と仰るのです。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と約束される。しかし率直に言って、主イエスの「休ませてあげよう」と「軛を負いなさい」との間には違和感が拭えません。これは主のもとで心地よく休ませてくださる言葉ではなかったのか? 苦労から解放された安らぎを味わわせてくださる、主の招きではなかったのか? そう疑ってしまいます。しかしどうも、ここで主イエスが約束してくださる休みや安らぎとは、私たちが手放しで、何もせずに味わえる恵みではないようです。そして私この所が、昔から引っかかっていました。

聖書の奥深さは、まさにこうした所にあると思います。もちろん何の支障もなく読める所、自分にとって受け入れ易い言葉が慰めや希望となる場合もたくさんあると思います。しかしその反面、何度読んでも引っかかる所、理解に苦しむ所、自分にとって都合の悪い所、言ってみれば、聖書の表面を指でなぞって「ざらつき」を感じるような言葉というものも、きっとあると思います。でもそこを避けずに、なぞり続けてみる。何度も思い巡らす。そしてその言葉をアンテナのように張りながら人生の旅路を歩む。それもまた御言葉と共に歩む生き方だと思います。混沌と格闘を内に抱えつつも、いつか時を得て、その御言葉の力に圧倒されると信じるからです。

自分の歩みを振り返ってみますと、私たちが疲れを感じたり重荷を感じたりするのはどのような時でしょうか。たとえ寝る間を惜しんで忙しく働いている時でも、疲れや重荷を感じないということがあります。なぜなら、経験の意味や人生の目的がそこに伴う時、私たちは意欲や勇気をもって前進することができるからです。ならば、私たちが疲れや重荷を感じるのは、働きすぎだからというよりも、その働きを支える人生の目的や意義を見失っているからではないか。はたして、私たちは何のために働いているのか。否、いったい自分は誰のために働いているのか。

昨今、「働き方改革」が注目されていますが、それは単に労働条件や労働環境等の改善だけに留まるものではないはずです。働き方を改善するということは、働きの基盤(目的や意義)を自分の内に問い直すこと、ひいては自分の生き方の改善、すなわち「いかにより良く生きるか」という人生の根本課題にまで根を下ろすことだと思うのです。

私たちの日々の働きの基盤、そして「生きる」基盤とは何でしょう。働き疲れて枯渇したり埋没することなく、深い安らぎの泉に浴する働き方や生き方の鍵は、どこにあるのでしょう。その鍵はどこから来て、どのような扉を開き、そして私たちがどこに向かうための鍵なのでしょう。私がここで、これについて偉そうに語る資格などありません。また、私にはまだ分からないことがあまりに多すぎます。ただ今回、この誌上で共に分かち合いたいと願っていることは、その鍵とは十字架のこと。そして、この鍵を与えられて歩む私たちの人生(働き)の目的や意味は、「(自分を愛するように)隣り人を愛する」こと。この、主イエスが強調してやまなかった第二の掟に流れ着くのではないかということです。私たちは愛されるために生まれて来たと同時に、愛するために生まれて来た。人を真に愛せる者となるために生まれて来たのではないか。そんな思いが、人を愛しきれない己の闇の姿を見るにつけ、いよいよ募ります。

ここで、第一の掟(「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」)に最初に触れないのは、もちろんそれを軽んじているからではありません。むしろ、私たちが神への愛を真実に注ぐことができるのは、この第二の掟に徹することにおいて、その突破口が見えてくるのではないかと思うからです。私たちが神の愛を知り、その神を、最も深い現実から最も高らかに愛することができるためには、愛に生きることのできない自分自身を良く知らなければならないのではないか。換言すれば、私たちが神の愛の極みである十字架の栄光を真に仰ぐのは、自らの十字架を背負う時にこそ、恵みとして与えられるからなのではないか。この意味で、主イエスが私たちに負うように求めておられる「軛」とは、まさにこの十字架のことではないかと思うのです。そして私たちが背負うべき自らの十字架とは、実に「隣り人を愛する」ことに他ならないのではないか。なぜなら私たちには、隣人を真に愛することのできない現実があるからです。そうできない事情や言い訳がいつでもあるからです。愛せない自分を虚しく発見するしかない無力感に捕われます。ここに、息(生き)苦しさがあると思うのです。しかしこれこそが、私たちの負うべき十字架に見えてきます。

この夏、暑さを忘れる程の衝撃を受けながら読んだ文章があります。それは伊藤 整という文芸評論家の書いた「近代日本における愛の虚偽」という題の論文です。少し古いものですが、なお新しさを帯びて迫って来ます。そこには、この日本における愛の諸相を見渡しながら、そこに「愛」を巡る偽りの現実が鋭く洞察されています。中でも、特に印象深かったのは次の一文です(伊藤 整『求道者と認識者』、新潮社、1962年、202頁)。心的習慣として他者への愛の働きかけのない日本で、それが、愛といふ言葉で表現されるとき、そこには、殆ど間違ひなしに虚偽が生まれる。毎日の新聞の身上相談を見るだけでも足りる。「私の方で愛してゐるのに私を棄てた」とか、「私を愛さなくなったのは彼が悪い」などといふ考え方でそれ等は書かれてゐる……愛してなどゐるのではなく、戀し、慕ひ、執着し、強制し、束縛し合ひ、やがて飽き、逃走してゐるだけなのである。

ここで問題とされているのは、要は私たちがいかに、本来愛ではないものを、愛と誤解してしまっているか、ということです。愛すると言いながら、しかしそれは、「戀し、慕ひ、執着し、強制し、束縛し合」っているだけではないか。いわば愛というラベルの貼り間違いを犯し続けている日本社会の現実です。そしてある意味では、その真の愛を説くべき教会においてさえ、またキリスト者の間でさえ起きている、愛の迷走劇。愛を求めながら、愛の外でさ迷い、愛に破れる現実です。

これまでにも共助会の集いで何度かお話しさせて頂きましたが、今、この私が福音の伝道者として教会に遣わされている背後には、言葉の確かさと愛の確かさを手にするための求道的な歩みがありました。そしてそれは、ほとんど葛藤と挫折の連続です。在日コリアンとして、マイノリティとして、また職業人(福祉・教育)として、この日本社会で経験と知見を積み重ねてゆく。その時、自らがキリスト者であるという、このアイデンティティをどのように自覚し、土台とするか。またどのように社会に生かし、人々との交わりの中でキリストの香りを放つか。これが積年の課題でした。それは今も変わりません。しかし、ある時から気づかされたことがあります。それは、次の御言葉を巡る理解においてです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。私はしばらく、まるでこれを一方通行の方程式のように考えていましたつまりこの私が、私よりも小さい者に愛を注ぐ。善行をなす。するとその先に、キリストが待っていてくださる。喜んで私の奉仕を受け入れてくださる。どこかでそう思い込んでいました。主語はどこまでもこの私。私が人を助け、私がキリストに会いに行く。そのようにして、隣人とキリストと共に歩むキリスト者としての使命が全うされる。この私によって……。

しかしある少年との出会いを機に、その「私」がモンスターのごとく肥大化していたことに、有無を言わさず気づかされる出来事が起こりました。まさに「愛の虚偽」です。愛ならぬ愛が暴露される現実。「人の為」に良かれと思ってなしたことが、文字通り「偽」りとなる辛い現実です。それまで積み上げてきたものが音を立てて崩れるようでした。呪われているとさえ思いました。しかしその呪いの出来事が、やがて数年をかけて、祝福の出来事であったと思えるようになりました。あの時、実はキリストの方がこの私に出会ってくださっていたことに気づかされたからです。その愛の御手をもって、この私に触れてくださったからです。自ら絞り出す愛に自分自身が破れた時、そこに、その私をまるごと包み込む主の大きな愛があった。そしてその愛ゆえに、偽りの愛を包み込む主の呻きの御声が、その少年の剥き出しの姿を通して、そこに鳴り響いていたのです。私は思いました。「愛は神なり」=愛ある所に神がいる、のではない。「神は愛なり」=神いまし給う所に真の愛がある、のだと。

最後に、冒頭の讃美歌は次のように始まっていました。「主にのみ十字架を 負わせまつり 我知らず顔に あるべきかは」(1節)。十字架を負われたのは、主イエスただお独りだけでした。それが父なる神の御心でした。にもかかわらず、なぜ私たちも十字架を負うのか。なぜ「知らず顔」のままでいられないのか。それは主イエスが独りで可哀そうとか、申し訳ないとか、そんな人情や罪責感からではないと思います。そういうことで言えば、私たちの罪の重みは全て、キリストが担ってくださったはずです。しかしまさに、それがどれほど価高い恵みであったかを知るには、あるチャレンジが必要なのかもしれません。逆に言えば、私たちが思いがけない所で試練を受ける時、望まない重荷を課せられる時、そこで神は、その十字架を背負うようにと招いておられると思うのです。それに応える時、私たちはなお、人を愛する困難を思い知るでしょう。自らの無知、罪深さが重く突き付けられるでしょう。しかしまた、その全てを「わたしの軛」として背負い、独り先に歩んでおられたキリストの後ろ姿に、遅まきながらに出会うのです。その十字架の重み、そして愛に何度も何度もさし貫かれてこそ、我が命は喜び踊ります。神に愛されている自分を喜びながら、その喜びが隣人へと広がるうねりを感じます。願わくは、神の愛こそが、キリストによって、土の器を介して、満ち溢れますように。「隣人を自分のように愛しなさい」。    (日本基督教団 松本東教会伝道師)