私をアジア学院に引き付けるもの 荒川 朋子

【誌上夏期信仰修養会 証しⅠ②】

私がアジア学院(アジア農村指導者養成専門学校)というユニークな場で働くようになってちょうど25年目である。アジア学院以外の仕事は、英語教師として中学校と高校に務めた3年間だけなので、私のほぼ全キャリアはアジア学院と共にある。なぜこのような場所にこんなにも長く身を置くことになったのか。アジア学院創設者の高見敏弘氏が私の高校に講演に来てくれたことや、大学生の時に初めてアジア学院に訪れた時の強烈な印象などエピソードは色々とあるのだが、就職の一番の動機は、何かよくわからない魅力に引っ張られ、どうしてもアジア学院でないといけないという一種の囚われのようなものだ。しかも働き出してから、辞めてしまいたいと思った時に限ってとても辞められない事情が発生して、辞めることをその都度阻まれて今日まで来てしまったので、まさに囚われの身のような感じなのである。

ただそれは嫌々、渋々囚われているのとは違う。それどころか私がアジア学院で過ごすほとんどの時間は、世界中から集まった人間味あふれた素晴らしい仲間たちと、「食べものといのち」に直結した多くの作業に泣いたり笑ったりしながら共に汗して、互いの思いや考えを自由に分かち合うことのできる、感動に満ちあふれたものだ。こんな楽しいことを仕事として与えられていることを神様に感謝しないではいられないし、これ以上の恵みはないと心から思っている。

これまですでに何度か共助会ではアジア学院がどのような場であるかを説明させていただいているが、今一度簡単にご紹介したいと思う。

アジア学院は1973年に栃木県那須塩原市に設立された学校(栃木県が認可する専修学校)で、いわゆる発展途上国と言われる地域の農村4 4 の指導者を養成するために、毎年25名~30名ほどの「学生」を招き、9か月間の研修を行っている。「学生」といっても年齢は25歳~45歳までの農村地域の開発事業に携わる組織や団体から送られてくる中堅のリーダーで、経験豊かな大人である。壮絶な貧困や差別、戦争や災害を乗り越えてきた人も少なくなく、私のような生ぬるい人生を送ってきたスタッフなど太刀打ちできないような尊敬すべき人生の先達も多くいる。こういった人生経験豊かな「学生」たちと、研修を支えるボランティアたちとスタッフが共同生活をしながら研修を作り上げていくのだが、最大の特徴は、学院の農場で有機農法で自分たちの食べる食料をほぼすべて自給していることである。だから研修も兼ねた農作業や調理など「食」に関わる作業は私たちの学院での生活の大きな部分を占めている。豚、鶏、山羊など家畜も多くいるので、週末や休日も分担して農作業に当たる。食事もすべて自分たちで作るので、学院は365日、一日も一時も休まることはない。 

そんなアジア学院はどうしてできたのか。それは約50年前に学院のビジョンを描いた高見敏弘という牧師抜きでは語れない。アジア学院の前身は日本基督教団に所属する鶴川学院農村伝道神学校の中にあった東南アジア農村指導者養成所(1960年開設。1970年に東南アジア科に変更)だ。この東南アジア科は、当時の東アジアキリスト教協議会の要請により、先の大戦で日本の侵略によって被害を被ったアジアの国々の農村復興に資する(主に食料増産と収入向上技術)農村牧師の養成を目的に設立されたのだが、10年余り経った1972年に神学校の諸事情から閉鎖された。そしてそのことがアジア学院の誕生につながっていくのだが、その経緯について一部の記録は神学校に残されているものの、わずかな期間のうちに再び別の地でアジア学院として生まれ変わらねばならなかった肝心の理由はどこにも書かれていない。多くの関係者から話を聞いてきたが、私の中ではいつも靄もやがかかったままであった。

ところがこの3月、昨年創立70周年を迎えた農村伝道神学校で、当時の東南アジア科の職員でその後アジア学院の設立にも関わった菊地 創先生が、当時のことについて講演をなさったと聞いた。私はその講演に参加することはできなかったのだが、先日菊地先生からその話を直接聞くことができた。

菊地先生によれば、(当時の様々な事情が複雑に絡み合っていたということを前提に)おそらく高見先生ご自身は、東南アジア科の「東南アジアの農村教会の牧師および信徒指導者の育成」という設立理念のもと、「アジアの農民たちと共に生きる」教会のリーダーを育てることが当時の研修および組織の形態では実現できないという結論に至ったのだろうということであった。またこの設立理念の神学的理解において、神学校と高見の間に隔たりがあったのではないか、ともおっしゃっていた。私はこれを聞いて、アジア学院創設の謎が少し明確になった気がした。

私はこれまでアジア学院の創設のビジョンに、単に農村伝道神学校下の東南アジア科のビジョンとは全く違うものを見ていた。2つは違うから、離れて新しいものが作られたのだと単純に考えていた。しかし菊地先生の話から、アジア学院の誕生の背景には、既存の理念と形態が「壁」にぶつかり砕けてしまうような危機に直面していて、だからこそそれらの再構築を賭ける願いがあったのではないかと思ったのだ。そして一度ぶつかった「壁」、砕けそうな危機に直面していた既存の理念と形態を知ることが、アジア学院の本質を探ることにもつながり、同時にアジア学院の特質や将来進むべき方向にも関係してくるのではないかと思った。さらに、それこそが私を捕えて離さないアジア学院の魅力に関係しているのではないかと思い、それらを探ってみることにした。

高見がぶつかった「壁」を探るべくアジア学院創設当時(1973年頃)に書かれたものを読み返すと、鍵になる言葉や文章が見えてきた。

「アジア学院における研修の機会は、全ての人々に開放される。本年(初年度1973年)は、東南アジアからの参加者は全員クリスチャンである。しかし、将来はヒンズー教徒、回教徒、仏教徒等の参加を見るであろうし、われわれはそれを望むのである。一つ所で、共に食し、共に働き、共に学び、人々に仕えるために共に準備をする、その生きざまの中で、他宗教の信者たちと真の対話を持ち、人格的関係に生きる ― われわれは、それを積極的に望むのである。そこにおいて、イエス・キリストを信ずる信仰の証ができないなら、ダメではないか。」

この中の何が、当時の神学校下の東南アジア科の「壁」や「限界」を指し示すのか。まず東南アジア科は当時神学科とは全く別カリキュラムを組んではいたものの、クリスチャン以外の人にも研修の門戸を開くことは認めなかったのだろう。菊地先生からは、当時クリスチャンでない日本人1名を東南アジア科に入学させるかどうかで大変な議論があったことを聞いた。翻って、アジア学院の創立開校式が「他宗教を信じる世俗の人々」の参加によって、いかに感動的なものであったかを、高見は次のように記している。参加者の中には、牧師あり、信徒あり、国会議員、県会議員、町長や助役、公務員、学校教師、学生、付近の農民、金融関係や財界人等々、老若男女、社会の各層を広く代表する顔ぶれであったが、その大多数はノン・クリスチャンであった。その彼らが、東南アジアの各教会から派遣されて来た教職や、信徒たち、そして全員クリスチャンである職員達と共に、彼らにとっては、「未だ知らざる神」に捧げる礼拝に参加し、共に祈り、共に讃美したのである。この出来事は誠に劇的であった。この感激は、キリストの教会によって繰り返されるべきものである。

そして、イエスが伝道された時も、パウロが伝道した時も、「この劇的な出来事の連続であったに違いない」と言って、アジア学院の開校式がこのように行われたことは「神の摂理」とまで言っている。今や、この「劇的な出来事」はアジア学院では日常となっている。開校式には果たせなかったヒンズー教徒、イスラム教徒、仏教徒も加わり、共に御言葉を聞き、共に祈り讃美する。しかも、アジア学院では私たちはほぼ全員が寝食を共にし、共に労働に従事し、共に学ぶ。完全に「壁」は打ち破られたと言える。

それでは「真の対話」を持ち「人格的な関係」に生きることはどうであろうか。神学校でそれはかなわなかったのか。同じ記事の中で高見はこうも言っている。

―そして、その場(他宗教との対話の場としてのアジア学院)に多くの主にある兄弟姉妹達が、短期間でもよいから参加されることを歓迎する。このことによって、日本を含むアジアでの神学教育に、大きな貢献をするように希うものである。現在の神学教育のまた教会教育の大きな欠陥の一つ、それは他の宗教を信ずる人々及び世俗との、生きた対話の欠如ではないか。比較宗教学や民俗信仰の講義だけでは、対話は成り立たない。現在、立正佼成会から4名の日本人青年を、委託研修生として受け入れているが、そのことがアジア学院での研修の働きを、非常に豊かなものにしていることを付記したい。

高見の望む「真の対話」のイメージが示されている。それは「生きた」対話なのだ。高見はこの「生きた」という言葉をよく使う。それは別の言葉では「人間らしい」という言葉で表されることもあり、つまり他者との「人格的な関係」から生まれる対話のことを意味しているのだと思う。このことに関連していつも思い出される高見のエピソードがある。

それは1971年から72年(アジア学院創設の直前)に、後にバングラデッシュとなる当時の東パキスタンで竜巻と大洪水による歴史的な災害に見舞われた被災地に、世界キリスト教協議会(WCC)と日本基督教協議会(NCCJ)の支援で実施された復興支援活動に高見が団長として臨んだ時のことだ。その時高見は、食料不足と衛生状態が非常に悪い極限状態の中で、高見自身を含む日本からやって来た救援活動従事者たちが三度三度食事を与えられているにも関わらず、「それを知っていて村の人達が一軒一軒次から次に招待してくれる」という驚くべき体験をする。そしてこう述べる。「飢えている人達が三度食べている者を招いてくれる。私はつくづくこういう人達こそ人間らしい人間なのだと思いました。」さらに、「私はそこに人間の最も美しい尊厳を見たと感じたのです」とも語る。

この旧東パキスタンの被災民たちは言うまでもなくイスラム教徒である。そして、高見たち日本からの救援活動従事者は一般公募された青年たちであったので、大方は特に特定の宗教や信仰をもたない人たちだったと思われる。しかし、命を支えるわずかばかりの食べものを過酷な状況の中で、より少なく持つ方が、より多く持つ者に分かち合うという体験をし、おそらく通じ合う言葉も持たずに、いや通じ合う言葉がないからこそ、互いに心の奥深くから感謝し合い励まし合ったはずである。そしてそこに彼らは互いの人間の最も人間らしい姿、美しい尊厳を見、人格的な関係を築くことができたのではないかと思うのである。私はこの瞬間こそが、高見の中にアジア学院の幻が生まれた瞬間ではないかと想像している。「ひとといのちを支える食べものを大切にする世界を作ろう―共に生きるために―」アジア学院の理念の誕生である。

高見はそうした美しい人間の尊厳、「人間らしさ」をとても大切にした。少年時代を禅寺で過ごした高見は、質素な生活を重んじ、いつも作業服にくしゃくしゃの帽子姿で、にこやかに誰とでも平等に接し、特に農村出身の素朴な学生たちを見る目は愛おしさにあふれていた。高見は「人間らしさ」が社会の問題解決のカギとまで言った。例えば開発や人口爆発が破壊するものについては、「―それは環境よりも何よりも人間である。人間自ら人間であることを、放棄することにつながるのだ」と危惧し、この問題について私たちは「人間らしい解決策を見出さねばならない」と提言する。それは「数量の問題ではない。人間性の問題である。人間性の最も善いもの、最も美しいものはすべての人の中に秘められている。それを充分成長させることである。これが人間開発の真の意味であろう。人が人となるための、人間開発である」と断言する。貧困、抑圧、困窮の中で、あるいは物質的な豊かさの中で、人が人らしく生きられない、人格が無視され尊重されない、それが開発がもたらした最大の破壊だというのだ。

だから、高見は迫るのである。宗教の垣根なんてことを言っていないで、早く皆で向かい合って真の対話を持とう、互いに人間らしい関係、人格的な関係を構築して、早く具体的な人間開発をして互いを高め合わなければいけないのだ、と急(せ)き立てるのである。こんな辛らつな言葉もぶつける。「公正で平和な社会の実現という抽象的な文句を繰り返し叫ぶだけでは無責任だと思う。それは無責任者が、自分では何も創造的な仕事をしないことの言い訳にすぎない」。

そしてその思いは、私たちが今日よくアジア学院で使う「乏しさを分かち合う」という思想につながっていく。

「われわれは『乏しさを分かち合う』ことを人類全体の共通の資産と早くせねばならない。その意味での、連帯の必要に迫られている。いわゆる『先進国』『豊かな国』の現状はどうか。そこでは人々は豊かさを、分かち合うことが出来ない状態ではないか。いや豊かさを分かち合うことを拒否さえするのである。それでは人類に未来はないと言えよう。『乏しさを分かち合う』ことによって、人類は真の意味で、豊かにならなければならない。

そのためには、『貧しい』アジアの民衆から学ぶものは、多くあると思う。」

何の苦労も知らずぬくぬくと育ち、大学でいわゆる国際協力や開発の問題に目覚めて、現場も踏まないままアジア学院に飛び込んできた自分が、世界の農村から集められた生身の人間たちとの生活を通して、こうした高見の共生の哲学、分かち合いの思想にどんどんと引き込まれていったのを覚えている。真の開発は、机上の空論でもなければ、誰かが誰かに一方的に何かをしてあげればいいなんていうものでもない。それは生身の人間たちが人格と人格をさらけ出してぶつかりあって、人間らしく共に生き、共に分かち合うことだと、そこには真の対話と人格的な人間関係がなければならないんだと、それが真実となって自分の体に染み入っていくのを感じた。しかもそれを誰から最も学ぶのか。「貧しい」アジアの民衆から学べと高見は言うのである。「数十年、数百年にわたって自然の脅威、社会的搾取等の重圧にジッと耐え、乏しさを分かち合いながら、無学文盲でありながら、なおかつ伝統的文化を守りつつ生き続けてきた民衆の遑(たくま)しいエネルギーの中に可能性が秘められていると思う。」そして、こんなことは既存の学校にはできなかったのだ、きっと全く新しい学び舎、共同体を創造する必要があったのだろうと、アジア学院の創設の必然性に合点がいったのである。

私は高見の書いたもののほとんどに目を通していると思っていたが、最近次の文章(原文は英文)を新しく見つけ、また引き付けられた。「(世界の)この状況は、食べものを生産する農民が、物事をあるべき姿に修正する仕事 ― 我々の言う和解のミニストリーに関与していくことを必要とする。私たちは自分たちのためだけではなく、他の人々のためにも食べものを作っていかねばならない。(だから)われわれは人間としてこの地球上のすべての生の営みに参与する権利を求める。われわれが望むのは独占的な力を手中に収めることではない。神の創造の業と和解のミニストリー(悲痛のうちにねじ曲がってしまった世界とのラディカルな和解)に参加することによっていのちを分かち合う力を求めるのだ。アジア学院が従事するのは和解のミニストリーだ。」

そうか、わかった! アジア学院の最終ゴールは、すべてのものがいのちを分かち合い、共に生きることのできる世界、そしてアジア学院はそのために「和解のミニストリー」を行うのだ。それこそがアジア学院が前身の形態の「壁」と「限界」を突き破ってその原点に据えたもの、そして私を引き付けてやまないものなんだ。(アジア学院アジア農村指導者養成専門学校 校長)