共助会との30年 井川善也

【誌上夏期信仰修養会 開会礼拝】
コリントの信徒への手紙一 3章5―7節

自己紹介

私は生まれてから30代半ばまでを京都で過ごしました。その後、福岡で9年、次いで富山で7年、大学教員を務めています。子どもが3人います。長女は高校の寮生活時代に出席していた新潟市内の教会で、次女は家族で出席している富山市内の教会で、それぞれ受洗しました。妻は教会学校と礼拝奏楽の奉仕をしています。

私の母教会は、共助会から生まれた教会である京都の北白川教会です。私の父と母も北白川の会員であると共に共助会員です。両親は大学生の時に京大共助会の聖書研究会から北白川教会に導かれました。奥田成孝牧師、小笠原 亮一・川田 殖の両先輩を始めとした北白川教会・共助会の交わりにあった約60年の歩みは人生の宝であると思います。その二人を親にもつ私は「生まれる前から」北白川教会の交わりの中で育てられました。文字通り「母なる教会」です。今回の修養会で話をする予定であった青森の小笠原 浩平さんは私よりふたつ年長ですが、きっとこの思いは同じでしょう。

母なる教会と小笠原牧師

私の北白川教会への思いは、小笠原 亮一牧師(参考:共助通巻649号、以下では号数のみ記す)への追憶と重なります。小笠原先生は小学生時代には教会学校の先生(高学年クラスで担任されたと思います)、中高生時代には教会学校の校長先生、大学生になってからは(洗礼を授けていただいた点も含めて)牧者として、私の信仰に「植え水を注いでくださった」(Ⅰコリント3:6)恩師でした。大学生時代には、山本精一さんや下竹敬史さんたちと共に、教会に近い吉田山での早天祈祷会に参加しました。早朝の四季の自然の中、小笠原先生の厳しく・深い祈りを通して、私の祈りが育てられたこと。祈祷会の後に教会の二階で持たれた朝食の楽しくも意義深い語らいの時間。また高橋由典さんがお世話されていた京大共助会の聖書研究会には小笠原先生も欠かさず出席され、毎週2時間、聖書の学びを共にしました。北白川教会には青年会はありませんが、それに勝る先生との濃密な人格的な交わりをいただいたと思います。

私が先生と直接の交わりを許された時期(北白川教会の牧師時代)の先生が担われた労苦の一端を、清水武彦さんは次のように記されています。「役員会で『高齢者や病気の会員への問安(もんあん)をしてほしい』という会員からの意見をめぐって、小笠原先生が『私が部落や朝鮮人ばかりかまって、会員を構わない、という批判があることは知っている』と漏らされた。」(北白川通信36号、104頁)。被差別部落に住み続けることを条件に、奥田先生の後任を引き受けられたこと、教会もそれを認めて後任に迎えたとはいえ、現実には教会員からは不満・批判の声があったのでしょう。婦人会や青年会などの集会を削ぎ落とし、主日礼拝に集中する北白川教会の姿勢は共助会ではよく知られてきたと思います。しかしそこには、小笠原先生が神様から与えられた使命とその結果としての牧会や説教の姿勢と、制度としての交わりを含めた教会員の声との間に小さくない摩擦があったのも、地上を歩む教会としての姿だったのでしょう。そんな教会の現実にあって、私を含めた当時の青年が許された先生との交わりがどれほどに恵まれたことであったかを、当時は全く思いもしませんでした。しかし今は、振り返る毎に先生と教会の双方に対して、恐縮とそれを越えた感謝の思いが溢れます。

九条オモニ学校・佐久聖書学舎

九条オモニ学校と佐久聖書学舎は、北白川教会に出席する青年の多くが当時参加した2つの「学びと出会いの場」でした。九条オモニ学校は、在日大韓京都南部教会を会場に1978年に始められた、在日韓国・朝鮮人のお母さん(オモニ)と日本語を共に学ぶ場でした。この場を通して、私は在日韓国・朝鮮人の問題、日本と韓国の歴史の問題、を学ぶ機会を与えられました。第一回の韓日修練会で共助会に入会(465)したことも、始まりは九条オモニ学校でした。今回の準備にあたり、共助誌に掲載された自分の文章を読み直しましたが、その多くが九条オモニ学校とそれをきっかけとした韓国との関わりについて語ったものでした(468、478、501、514、516)。学生時代から結婚して生活環境が大きく変化するまでの約10年間、九条オモニ学校での出会いや学びが、自分にどれほど大きな位置を占めていたかを改めて思い起こしました。

佐久聖書学舎は、川田 殖先生を中心とした当時の青年により、北白川教会や共助会の支援のもと1964年から始められ、一旦の休止の後、2008年から山本精一さんと石川光顕さんを中心に再開され今に続く、聖書の学びの集いです。昨夏には長女が参加でき、私の両親から三代にわたり佐久学舎の学びに連なれたことは、感慨と共に、大きな喜びと深い感謝でした。佐久学舎での「サムエル記の学び」のレポートが、初めて『共助』に掲載された私の文章でした(428)。当時は大学2年生、佐久学舎には2回目の参加でした。前年にあった初参加の緊張もなく、川田 勝くんたち同世代の友、若き日の及川 信さんや木村一雄さんも交えた聖書の学びと議論、真剣な祈り、語らいは朽ちない青春の思い出です(山本精一さんがその一端を川田勝くんの追悼文に記してくださった。675、22頁)。ここで学んだイスラエルの歴史に「生きて働かれる神」は、今に至る私の信仰理解の土台であり、受洗(翌年イースター)へ至る私の求道の出発点ともなりました。妻と初めて出会った(そして惹かれ始めた)のも、この時の学びの場でした。古いものでは30年以上前に書いた『共助』の文章を読み返すと、不十分な点、面映ゆい点は勿論あるのですが、その時々に、自分なりに真剣に考え・祈り・語った言葉だと今でも感じます。私にとって共助誌は、その時々に神様へ「自分の歩みのレポート」を作成・提出するために課された機会なのかもしれません。

奥田牧師を通して教会を考える

北白川教会の主任牧師が奥田先生から小笠原先生へと交代したのは、私が中学生になる頃でした。奥田先生が横浜に移られた時、私は高校生でした。ですから私は奥田先生から説教や牧会を通して直接の薫陶を受けた世代ではありません(私見では、及川信さん、山本精一さんらがその最後の世代)。しかし幼少期から毎週教会でお会いし、大人の礼拝中は子ども部屋でスピーカーを通し説教の声を聞いたのですから、その記憶は刻まれている、そんな存在です。

30年余り北白川教会に通った私には、それまでの信仰の出会いや交わり(京大共助会、佐久学舎、九条オモニ学校)の全てがこの教会を通して与えられたものでした。今後も生涯、北白川教会は自分の信仰と人生の一つの基準点であり続けるでしょう。その一方、子が成長する過程において親に反発する時期があり、親から自立する時期があり、さらに自分も子の親になると改めて自分の親の存在を見つめ直すように、私も自分の人生の時々に母なる教会を見つめてきました。京都では漠然と(『北白川教会60年史』、58頁)、福岡では出席教会の課題を担う中でより自覚的に(663、670)、北白川教会が自分を映す鏡として「教会とは何か」を自分に問うてきたと思います。その問いが奥田牧師にとっても生涯をかけた問いであったことも知りました。私の心に刻まれる奥田牧師の文章を記します。

「これが唯一絶対の在り方だと思うわけでなく、私の心底には、なお真の教会とはどのようなものであろうかとの模索の思いもあるわけです。そのような点から、かかるいい方は誤解をまねく恐れもありますが、北白川の将来は、その志をつぐ人がないなら敢えて存続ということに重点をおかなくてもよい、と思っています。」(『奥田成孝先生追悼文集』、14頁、波線は井川、以降も同様)

「いつも云う様に、コリントの教会、ガラテヤの教会といっても、何も建物として今日伝わっているわけではありません。しかしそこに主を中心として活きた信徒の交わりとしての教会は、今日もなお私共はそれにつらなっています。そこで一番中心的なことは、私共の現実が真実にその交わりの中にあるかどうかにあるのでしょう。従って極端ないい方をすれば、将来的に何らかの理由で北白川教会が地上的な意味からはその存続を没するときがあるとしても、その日までの私共の主を中心とした交わりの真実が天の記録に残るものであるならば、それでもよいといえましょう。(中略)私共の教会も天の記録に残る真実な交わりの実を生きているならば、他日どの様な事が起こったとしても北白川教会の生命は日本の教会のいずこかに生きて伝えられるでしょう。私はそういう教会生活を生きたいと思うのです。」(『北白川教会50年史』、313頁)

奥田牧師の言葉(特に最後の波線部)は、北白川教会を巣立った全ての者に向けられています。「(北白川)教会の生命」とは何か、一人一人が問われねばなりません。また、表立っては語られない北白川教会の課題もありました。それは牧師の小さな嘆息としてしか記録されていませんが、私には牧者からの明確な問いかけでありました。

「あるとき小笠原亮一さんが私にぽつんと話されたこと。『尾崎さん、北白川教会にいた人は外に出たときに困るのです。教会から離れてしまうことが多い。』」(尾崎風伍、660、41頁)

「小笠原先生から、特に僕みたいな若い者が北白川教会で信仰の鍛錬を受けた場合、信仰が試されるのは北白川教会にいるときではないのではないかと、何回か聞いたことがあります。そこから一度離れて、ひとりのところに行って、初めてそれが確かなものかどうかが試されるのではないかと。」(井川善也『北白川教会60年史』、56頁)

この課題も「教会とは何か」という問いと切り離せない、私に託された課題です。

共助会とは

「共助会とはなにか」と問われて言い表す自分の言葉をまだ持っていませんが、私に強く長く共鳴し続ける二人の先達の言葉を紹介します。一つは奥田牧師の言葉。

「(前略)所謂教会論をなす人々の中に教会の外にそのような信仰団体の存在は正しくなく教会形成に邪魔になるという論もきかされた。私は若き頃に随分この論をきかされなやまされたとさえいえる。所謂教会論的にどうなのか知らないが私は事実をもって答えてきた。共助会に参加をしたために教会を去ったという例は殆どなく、むしろ教会の中に疲れ足どりの弱っていた人、更には教会を遠ざかっていた人々が共助会の交わりの支えによって祈りを新たにして教会生活に励むに至った人々があることを持って答としてきた。」(253、および『共助』掲載選集、131頁)」

団体としての共助会の存在意義として私に強く響く言葉です。しかし京都共助会(多くが北白川教会員)はこの言葉をどう受け止めるのだろう、ここに語られる「教会」に北白川教会は入っているのだろうか? という疑問も浮かばないでしょうか。北白川教会と京都共助会は互いに不可分な存在として歩んできたのですから。もし奥田牧師と語ることができるなら、尋ねてみたい問いなのです。

もう一つは、出会い・交わりとしての共助会を言い表した澤正彦の言葉。「共助会とはなんぞや、共助会の神学はあるのか、教会と共助会との関係はどうなっているのかについて、私は何も深く考えたことがありません。またこのようなことを必ずしも明確にしなければならないかということも疑問に思っています。共助会には常識的な人間、型破りの人間も含めてキリストに把えられ、引きずられ、自分の人生をキリストによって、正されるか或いはひん曲げられていった人々の別々な生きざまがあるだけであって、私たちは共助会の人々のこのようなライフ・ストーリーを知るだけで充分であります。」(345、および、『韓国と日本の間で』、56頁、『沈黙の静けさの中で』、104頁)

私は私として、死んでからが勝負

私にとっても共助会は、澤先生の言葉通り「キリストに把えられ、キリストに従って、神様に与えられた道を歩む方々」との出会いの場でした。そうした人格的な交わりは共助会の宝であると同時に、意図(意識)せず人物(人間)中心の集いになる危険を内包するのかもしれません。実際、この点に関わる理由で共助会から離れた方もあるようです。「教会とは何か」を問い続けられた奥田牧師の志を深く継承された(と私は考える)及川信さん(山梨教会HP説教、他説教集など参照)、京都共助会の源流といえる京大学内聖研を長年お世話された高橋由典さん(著書:『社会学者、聖書を読む』、『続・社会学者、聖書を読む』など参照)、私が学生時代から変わらぬ敬意を抱くお二人が、それぞれの理由から共助会と距離をおかれた事実を考えると、共助会(北白川教会)から大切な根が二本切れてしまった如くに思う時があります。そんな複雑な思いも抱きながら、このお二人を含めて共助会を通して与えられた出会いを感謝の中で振り返る時、同時に心に浮かぶ文章を記します。

「私は今共助会の責任の位置にありながらかかるいい方は無責任であるかも知れないが、これが森明の共助会について正しい理解である等とは思わない。私は私なりにうけとり理解したところであるというまでである。私は森明、内村鑑三に深く尊敬を覚えその信仰、精神を学ぶ。しかし私は私であり私なりにいきるという外はなく、今私が責任をもつ北白川教会は以上の理解、責任にたって、神の恵みの下歩んできたわけであった。」(奥田成孝253、および『共助』掲載選集、140頁)

「(注:日本を去る際、毎週スイスに便りを出しましょうとの学生の申し出に対して)『私はスイスに帰り、皆さんは日本に残る。私はスイスで、皆さんは日本で、共に主の証びととして立つ。(中略)つながるべきは主の幹であって、ブルンナーではない』、ときっぱりと答えられたのであった。しかしこの言葉は、私の魂に深く突き刺さった。それ以来私はブルンナー先生を思うたびに、『私をではなくキリストを』という、この先生の気魄に鞭打たれるのである。」(川田 殖『日本におけるブルンナー』、358頁)

最後に、小笠原先生が死を前に語られた「死んでからが勝負(649、59頁)」という言葉に触れます。順夫人は「生前、蒔いたと思っていたはずの種子が、果たして芽が出るかどうか。(649、60頁)」と解しておられます。私は次のように受け止めます。私たちは、一人も例外なく主の裁きの座の前に立ち、地上の歩みを問われます(コリント2、5:10)。主なるキリストは小笠原先生にもその歩みを問われます。牧師としての務めについても(主ご自身が選び先生に牧する務めを託された、私を含めた一人一人と教会を、一つ一つ指差しながら)漏らすことなく主は先生に問われます。義と愛をもって主が裁きの座から小笠原先生に問われる〝その(勝負の)時は、先生が植え水を注いだ私が〝この私〟の歩みを先生と主なる神から問われる(勝負の)時なのです。

(日本基督教団富山鹿島町教会員)