【再録】『歴史に生きるキリスト者』(1993年)―真の友情から問いかける日韓関係 李 仁夏/小笠原亮一/洪 彰義/川田 殖編より
声明 韓国の共助会の友たちへ
基督教共助会は、1919年に創設され、以後今日まで10名をこえる韓国の友を与えられてきました。創設の年1919年は、三・一独立運動の年であり、その後の日本の苛酷な植民地支配の中にあっても、韓国の友と主にある友情を結ぶことをゆるされたことは、主の恵みとして感謝にたえません。さらに1945年以後、日本の罪責を主にあってゆるし、主にある友情の手をさしのべる新しい友を与えられたことも、つきない感謝です。そのような主の恵みと主にある友情に支えられて、今回はじめて韓国の地において共助会の修練会を持つことをゆるされました。
海をこえてこの修練会に参加した私たちは、深く感謝すると共に、主の前に、また韓国の友の前に、隣国との関係における日本の罪責と私たちの罪責を改めて省みさせられ、十字架の主を仰がしめられました。かつて、私たちは韓国の人々の独立の願いを理解せず、その民族性を奪い同化を強要する日本の国家体制に反対せず、数々の暴虐な支配に目をつむりました。私たちはまた日本の諸教会と同様に侵略戦争や神社参拝等の偶像崇拝に抵抗せず、それに抵抗して苦難を受けた韓国人キリスト者を見過ごしにしました。1945年以後私たちは、日本もまたその責任を負っている南北分断をはじめとする諸問題に苫悩する、韓国の友たちの祈りを共にすることが、あまりに少なくありました。在日韓国人の人権や差別の問題についても同様であります。私たちは韓国の友たちの忍耐と寛容に甘えてきたのであると、痛切に思わざるを得ません。
韓国におけるはじめての修練会のこの記念すべき時に当たり、私たちは、これらの罪責を主にあって担い、主にある友情を培いつつ、この時を備えてくれた先達たち、特に天に召された李台現、堀 信一、澤 正彦、また病の床に臥している和田 正の諸兄を想います。私たちはこれらの良き先達たちの歩みにならい、私たちの罪責を具体的に直視し続け、福音による日本の民主・平和・人権のために努力し、韓国の民主・平和・人権、さらに南北統一のための友たちの努力に祈りを合わせたく思います。またさらに、いつの日か両国をこえて、アジアや世界の主にある真の民主’ 平和・人権のために、手をたずさえて仕える日の来たることを心から願います。
1992年4月1日
韓日基督教共助会修練会
日本人参加者
飯島 信/石川光顕/伊吹十之/伊吹 由歌子/大塚 野百合/大谷 拓/尾崎風伍/尾崎マリ子/桂川 潤/加藤葉子/川田殖/島崎 キヌコ/島崎光正/千野 満佐子/藤 孝/當間 喜久雄/本間 浅治郎/森川静子/和田健彦/浅野澄子/井川善也/植松芳信/小笠原 恵里/小笠原 浩平/小笠原 亮一/片岡秀一/片柳榮一/木村一雄/木村陽子/佐伯 勲/里子真一/沢崎良子/山本精一/下竹敬史/大島純男/大木松子
韓国の友垣(一九八五年訪韓の交換会で自己紹介・澤正彦まとめ)
洪 彰義(ホンチャンイ)
黄海道出身。平壌・崇実中学当時、山亭峴教会に出席、朱 基徹(神社参拝拒否、殉教者)牧師の生きざまに接する。1941年(昭和16年)山口高等学校理科に入る。先輩にすでに李 英環、郭 商洙兄がおり、堀 信一先生の土曜聖研に出席。堀先生は、個人的な指導教授でもあった。2年半後、京都帝大医学部に入る。先輩李 英環兄の紹介で、北白川教会に出席、そこで信仰告白をし、北白川教会会員となる。その間共助会の修養会などで、奥田成孝、和田 正先生の聖研に深く学ぶ。
終戦直前、1945年5月京城帝大医学部に移り、同年卒業。朝鮮戦争後、学生時代の同志だった者と一緒にソウルに香隣教会をつくる。今日迄、香隣教会の長老として教会に仕える。ソウル大学医学部小児科教授として奉職、その間大学病院副院長、院長を歴任。大学病院には、一二〇〇ベッドがあるが、患者たちの病院教会をつくり、香隣教会が全面的に助けている。約二百名の人達と恵まれた礼拝を守っている。
裵 興稷 ペ フンジク
五人兄弟。祖母、父母の信仰をうけつぐ。1941年、父が日本の官憲により捕えられ三か月留置場生活をする。以来満州安東に移住、自由な信仰生活を求めた。終戦直前に、慶尚北道安東に帰る。自分は、徴兵第一号で北支にいく。
共助会との交わりは、1964年東神大留学が契機であった。澤が韓国語を習いたいというので教える中に、共助会のことを聞き1965年箱根の修養会に参加、そこで入会。共助会について、三つのことを感じている。
①信仰的熱心、
②キリストにある友情、交わり、
③信仰的知識を広める熱心(『共助』誌を通して)。
これから一年に二、三回でも、韓国内の共助の交わりをもちたい。
現在、安東にある慶安高等学校の校長。慶尚北道では最も大きいキリスト教主義学校。30年の歴史がある。定年迄まだ4、5年、最後の奉仕場として働くつもり。
金 允植 (キムユンシク)
慶尚北道禮泉で牧会中、1965年東神大に遊学。澤に出会い共助会を知る。禮泉で20年牧会。現在はソウル鍾岩教会牧師・
同時に韓国NCC会長、文書伝道、神学校理事、その他キリスト教会の要職を兼ねている。早くこれらの要職を解かれて、牧会に専念したい。
小学六年の時、天長節に教育勅語を読む際、頭を下げなかったことで、友人と喧嘩をする。このことが日本人教師の目にとまり、チョークで頭から血が出る程ひどく殴られる。自分がキリスト教徒であること、偶像に頭を下げられないことをいったが、「思想のある奴は朝鮮に住む資格なし、蒙古にいけ」といわれる。そこで、自分は朝鮮では生きられないと思い日本に渡る。小石川に住んで東洋大学に入学したが終戦。後、神学校に行き牧師となる。自分は日本に行って、第一に柔道を習いに講道館へ通った。それは強くなって、日本人に負けないためだった。
いろいろあったが、共助会を澤に紹介されてこんな嬉しいことはない。澤を私は弟のように思っている。これから韓国の共助会同志の交わりが一年に一度でももてたら幸いと思う。
郭商洙(カクサンス)
戦前日本語が上手だといわれていたのに、戦後40年、使わなかった日本語が出てこない。聞くには不自由はないが。
山口高等学校で、堀 信一先生から信仰の指導をうける。山口はカトリックの聖地で、自分もカトリックにひかれていたが、堀先生宅での聖研によって信仰を堅めることが出来た。東京に行く際に、堀先生の紹介で北森嘉蔵先生に会い、北森先生より心からの愛をうけ、家族同様、御宅に世話になる。教会は本間 誠先生のおられた目白町教会だった。東大二年の時、1944年学徒兵となって、千葉、川崎を転々とするが、北森先生の面会を今も思い出す。それ程世話になった日本の諸先生に、戦後十分連絡出来ず、申し訳なく思う。朝鮮戦争後、 教会音楽に使命を感じ、アメリカでパイプオルガンと合唱指導を学び、一九五九年以降、延世大学で教会音楽を担当し今日に至る。
韓国教会は熱心であり、大型化されてきたが、礼拝が説教中心、それも御利益的になりがちである。神に捧げる礼拝、人の言葉より神の言葉が崇められる礼拝を目指して、今教会の変革が必要と思う。礼拝における本質的なものを回復させていく点で、教会音楽の立場から努力したい。
李台現 (イテヒョン)
咸南出身。小学校六年の時、日本人校長にデモをしたということで、不逞鮮人と呼ばれ卒業証明をもらえず、満州のカナダ宣教部経営の学校に通う。山口高等学校で堀信一先生の指導をうけ、特にロマ書の研究は印象的であった。堀先生は、しばしば、森明の「霊魂の曲」のことを詳しく述べられ、今も鮮明に覚えている。
東大農学部に入ったが、終戦二か月前に故郷に帰る。戦後は労働者や失業者が赤い腕章をつけてのさばり、自分は妻、子供をおいて一人ソウルに来る、ソウル大の農学部が水原(スオン)にあったから。水原にいる時、妻、娘二人が北を脱出して来る。水原では、堀先生のように学生達とロマ書の聖研をやったが、朝鮮戦争後、力をなくしてやめてしまう。
朝鮮戦争中、隠れていたが、捕まるということで水原を発して逃げる途中、堤岩教会(日本が1919年4月、20名余の青年を教会に閉じこめ、教会もろとも焼いた)に行きつき、当時の生き残りの証人、田チョン 権クオンサ師(権師は女性信徒の最高地位の名)の勧めで、牧師館に家族一緒に住む。一時水原の自宅に戻った処、李(ヨウビン)氏と共に発安(パルアン)で捕えられ、自分は釈放されたが、李(ヨウビン)氏は拘束された。反動分子ということだったが、 自ら進んで李(ヨウビン)氏と運命を共にし、獄中生活をする。田権師の一人息子が当時、水原の人民委員長をし ており、田権師の願いもあって、田氏の息子安アン人民委員長に手紙を書き、釈放される。農民と共にあろうとする教授たちと間違って捕えたと。
その他様々な経験を通して、「愛ある処に神の助けあり」とつくづく思う。友情と愛のある処に、神の恩寵は必ず伴う。武力、憎しみは勝つことはない。
この言葉を堀先生に伝えてください。
“l cannot blame Japan and Japanese people because of Prof. Hori.”(一九八五年九月召天)
尹鍾倬(ユンジョンタク)
禮泉近くのシンプンで生まれる。神学校を出て、聖書神学校で八年教えたが、以後大邱で牧会にあたる。
現在は一応教会を辞し、新しい教会づくりを目指している。大邱の新興住宅地帯(三千戸)伏賢洞(ボクヒョンドン)には教会がない。近日中に祈りの同志たちと教会設立の準備をするつもりだ。
1982年の統計によると韓国人が最も嫌いな国の第一に日本が上がるとし、また日本は韓国を友好国とみていないことがわかる。森明の本を読んでいるが、キリストにある友情こそ、韓国宣教の課題だと思う。和田先生は「十字架の下で」の和解をその昔、延世大学連合神学大学院での講演でなさった。自分は七八年共助会の修養会に出たが、「十字架の下で」友情を温めたい。澤が再び韓国に来ることを願うし、また李仁夏牧師のような立派な韓国人が日本に多く行くことを願う。
朴錫圭(パクソクキュウ)
1966年、慶州の教会を牧会中、東神大に留学。そこで澤に会い、韓国語を教えるのに、「三・一運動史」を教科書とする。勉強中、澤が涙をうかべて、「これは一体本当か」という。二人して、抱きあって、日韓の良き架け橋になることを誓う。1966年、和田牧師と澤が慶州の自分の教会を訪ねたが、教会員の手紙に、日本から真の牧師が来たと。自分は、李仁夏牧師、澤の推薦で共助会に入る。共助会は、交わりが深く、理知的であるのに信仰が厚く、温かい。66年10月号の『共助』誌に「日韓両国教会の交わり」について書いたが、それを当時、教団議長鈴木正久牧師がとりあげて、教団総会において、「戦争責任告白」承認を促した。憎しみではなく、和解と愛を訴える文を私は書いた。地理的に近い日韓両国が、十字架の下に本当に近くされて、アジア教会のために働く共助会でありたい。現在はソウル貞陵教会牧師。
李英環(イ・ヨンファン)
自分の大体の歩みは、洪先生が語ってくれた。私は他の兄弟達と異なって21歳迄、キリスト教を知らなかった。
共助会と自分とのつながりは深い。共助会が生まれた年と私の年は同じで、今65歳。戦前、共助会と私達をつないでくれたのは堀先生、戦後は澤だと思う。私は堀先生を通して、奥田、和田先生の感化をうけた。森明が病のため修養会に出られない友に、キリストにある友情に溢れた切々たる手紙を書いたことを今も記憶している。
今度のこの集いを契機に、互いの主にある友情を温め、韓国の側でも集いをもち、日韓の良き隣人になる役割を果したい。現在は町医者。香隣教会長老