随想

義姉を見送って 佐川 真理子

東日本大震災、東京電力福島第1原子力発電所事故が発生してから8年が経過しようとしている。私の夫は原発事故の起こった双葉町の出身である。

去る1月25日に、福島市内の病院で夫義憲の長兄の妻が息を引き取り、31日に福島市の斎場で葬儀が執り行われた。1月20日に83歳をむかえたばかりであった。

震災の起こった2011年3月11日の夜、兄夫婦は「2、3日で帰られるだろう。」という軽い気持ちで運転免許証のみ持って福島方面へ避難した。避難所を2カ所回った後、義姉の生家に身を寄せた。何も持ってこなかったため、いろいろ助けていただいたという。その後、双葉町民は埼玉県加須市に避難した方々と福島県内に残った方々がいて、福島県内の人はホテル、リステル猪苗代に滞在した。

福島県はいわき、中通り、会津の三地方に分けられる。海に面した双葉町に比べて会津地方の猪苗代は寒い。秋になり兄夫婦は末娘の住むいわき市のアパートに引っ越した。避難生活の疲れからか、いわきに移ってから義姉の人工透析が始まった。週3回、迎えのバスに乗って病院に行き、人工透析を受け、バスで送ってもらうと1日がかりである。大変な負担だったろう。

一方、長男家族が福島市飯野町に家を建てたため、兄夫婦も翌年飯野町に引っ越した。その時は、まず義姉のために人工透析ができる病院を探した。これが6回目の引っ越しだった。

飯野町では兄夫婦も孫と1緒に暮らし、しばらく穏やかな生活が続いた。昨年の秋、義姉はこのままでは1年しか生きられないと言われ、11月にカテーテルをうけたところ意識不明となり、そのまま意識を取り戻すことなく1月25日に亡くなった。

葬儀には、いわき市、楢葉町、埼玉県加須市などから双葉町元住民が集い、離散の様子がうかがえた。

義姉を偲ぶ写真の中に、双葉町に一時帰宅をしたものがあり、原発敷地から1・5キロの自宅の前でとった兄夫婦の首のところには線量計があった。双葉の海に向かって歩いている写真もあり、海岸を兄夫婦と散歩してハマボウフウを採ったことや、海水浴を楽しんだことを思い出した。

原発事故後の生活では沢山の不満や嘆きがあったと思うが、兄夫婦からは怒りの感情にまかせた言葉を聞いたことがない。私たちの見えないところで沢山の涙を流していたことだろう。

震災と原発事故から、どれほどの人の悲しみや苦しみが続いていることか。しかし、それらの悲しみや苦しみを主は全てご存じであると信じ、祈ることができるのは大きな慰めである。また、フクシマのために国内外から多くの方々の祈りと助けがあった。どのような困難も共に歩いてくださる方がいることを思うとき、その困難を乗り越えていけるのだと思う。共助会の皆様がフクシマを覚えて祈ってくださっていることは、本当に大きな励ましであり力である。心から感謝いたします。

東日本大震災の後、日本中で多くの災害があった。何も出来ない自分を嘆くのではなく、主の御心を求めつつ、多くの被災者の方々のために祈っていきたい。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目をはなさないでいなさい。……それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(新改訳 ヘブル人への手紙12章2~3節)