ひろば

初めて佐久学舎に参加して学んだこと〜千葉 雄

 

2015年の夏、私は佐久学舎に初めて参加しました。あの一週間は、自分にとって本当に大きく貴重なものになりました。多くの人と交わり、美味しい食事と穏やかな自然の中の簡素な生活で聖書を学べたことは、楽しい大切な思い出になっています。ここでは、そのような佐久学舎の生活で私の内面に起こった事にしぼって述べたいと思います。

以前、私は人生の意味を見いだせず、自己欺瞞の中で、堕落しきった生活を送っていました。ある事件がきっかけで、自分の自己愛の欺瞞の中で、相手の気持ちも分からず、今までいかに他者をないがしろにしてきたかを深く認識し、絶望しました。絶望の中、以前惹き付けられたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み、そこの中の神の愛というものに触れ、神にすべてを託してみようと決断しました。それから不思議なことがいくつか起こって、神様と出会いました。

しかし、時間が経つと、神様と出会ったばかりの頃の清い気持ちと感謝を忘れ、緩んでいきます。もちろん、以前のような堕落した生活の中にいるのではありません。神様と出会ってしまった以上、そこにはもはや戻れない。しかし、自分の生活をうまく律することができず、欲望や誘惑など煩わしいもののぬるま湯の中でまどろんでいて、生活の一番肝心な的(神様から与えられる仕事・使命)を射ることを妨げている。神様に「どうにかして下さい」と祈って求めて、新しい力が湧き起こるが、また生活の誘惑が自分を下へと引きずり下ろす。魚の水槽や花瓶の水のように、神様に水を取り替えてもらっては自分の垢が汚し、取り替えてもらっては汚しを繰り返していたように思えました。神様の恵みを使い果たして、堕落か地獄が待っているのではないかとも思いました。そのような中で、佐久学舎に誘われたので、参加することをすぐに決心しました。以前に、川田先生とお会いしていて、佐久学舎なら何かこの問題を解決できるきっかけが与えられるかも知れないと思ったのです。

佐久学舎の一週間は不思議な時間でした。日々の生活の中での欲望や誘惑、煩悶といったものがそぎ落とされ、自分の心が簡素になり、充たされていたように思います。その分、深く自己の内面と向き合うことができました。そうすると、自分の駄目さ、愚かさ、至らなさ、不完全さにぶつかっていきました。それは、被われていた欲望や誘惑がそぎ落とされて、根本的な核の部分に向き合えたのかも知れません。何度も、何度も、祈りました。その度ごとに神様からの不思議な応答があったように感じます。神様が本当に近くにいるように感じました。色々な人との交わりの中で、生活の中で、神様が多くのことに気づかせ、教えて下さったように思います。さながら、神様からの課外授業のようなものでした。そして、何よりも重要なことは、様々な方と触れ合えたことです。ほとんどの方とは初対面なのに、何か昔からの馴染みであったかのような暖かさが、佐久学舎の第一印象でした。佐久学舎へ着いたとき握手で温かく迎えて下さいました。また、川田先生から「よく来た、よく来た」と温かく声をかけて下さいました。この暖かさは、一週間ずっと感じたものでした。そして、この触れ合いを通して、神様がいかに私の人生の中で、その時々に、人間を配置して下さったかに思い至りました。それらの人たちは、決して立派な人ばかりではないですし、ほとんどは信仰などと無縁で、それぞれに問題を抱えていた人たちだったかも知れませんが、みんなそれぞれの精一杯で、私と向き合ってくれていたと思います。それは、私のような者でも孤独に陥らないようにするため、そこで何かを気づかせようとするため、さらには神様ご自身に出会わせるための神様のご配慮だったように思うのです。しかし、過去に、そのような人たちをいかに私はないがしろにしてきたことか。

自分の中の問題、それは不思議なことに自分の担当した聖書の箇所の中にありました。フィリピの信徒への手紙二章には、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」へりくだることを教えています。自分の中の人に見られたくない弱みがあり、自分を見かけ以上に見せる。あるいは、自分に対して、見たくない自分、誇りたい自分、美化したい過去などがあり、自分で作り出した欺瞞の虚栄が偶像のように自分の心にこびりついていく。そこには、自分・他人・神様に対して、ごまかしと嘘があり、そこが自分の場合問われていたように思うのです。飾り付けられた嘘にごまかされないで、本心を基盤にして行くことが大事で、そのような頑なな偽りを神様は見逃されないのだと思います。

佐久学舎での全体の祈りの中で、あまり人の苦しみや痛みを顧みない祈りをしてしまったように思えて、そのことを川田先生に最終日に相談したときに、先生は、「最後に、『この祈りをイエス・キリストの御名によって御前にお捧げします』と言う。それは、イエス・キリストにその祈りをお委ねしますということだから、問題はない!」と声をかけて下さいました。もし、記憶が間違えていたら先生ごめんなさい! この言葉は自分の悩んでいた問題にとって大きなものでした。他人の気持ちも分からずに迷惑をかけるだけの自分はどうやって人を愛すればいいのだろう。しかし、自分の至らなさで、自分が目の前の人を助けられなくても、たとえ人を傷つけるような結果になったとしても、自分や他者、神様に対して心が真実でさえいれば、そのことをあまり恐れることはない。神様にすべてをお委ねすれば、自分に代わって神様が誰かを通して、その人の苦しみや傷を癒して下さる。そこに、自分のただ評価されたいという下手な利己心と虚栄心さえなければ、祈りの中でたとえ狭い心であったとしてもその範囲内の精一杯でその人のことを思いやれる。それでいい。そのように家に帰って考えていました。すると、スーッと自分の問題にしていた心の中のつかえが取り除かれたように思えました。

佐久学舎は、自分にとって非常に大きなものでした。川田先生ご夫妻と、導いて下さった藤 孝さん、会を支えて下さった方々、そこで出会った方々に感謝します。

(東京外国語大学大学院)