フィンランド紀行1 外側から見えてくるものとは E.O.
東京はいつもなんだか埃っぽい。それに加えて最近の夏は暑くて外に出られたものじゃない。一日家でぐうたらしていたいところだがそういうわけにもいかないのが現実である。
私の生活は規則正しい。まず、毎朝5時に起き、コーヒーを一杯。それから、ゆっくりと机に向かい、課題に取り組む。ひと段落ついたら朝食を済ませ、大学へ向かう。授業を終えて家に帰ると、再び課題に取り組むか、バイト。そうして、22時半には眠りにつく。
……というのは実は、四か月ほど前までの話である。
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私は東京都にある国際基督教大学に通う三年生だ。専攻にジェンダー・セクシュアリティ研究と、副専攻に平和研究を学んでいる。現在は大学の交換留学プログラムを通して、日本から遠く離れた北欧、フィンランドのタンペレ大学で学んでいる。ここでは人が親切で、自然が美しく、食べ物も美味しい。特に大学のあるタンペレという町はヘルシンキに次ぐフィンランド第二の都市で、スーパーや公共施設へのアクセスが良い。また、学生に優しい町としても知られ、様々な所で学生割を受けることができる。まだこちらに来て一か月半ほどしか経っていないが、既に私はここでの暮らしが気に入っている。
実を言うと大学での交換留学は、入学前から志していたものだった。というよりも、交換留学をしない、という選択肢はなかった。高校三年の受験終了時からすぐにアルバイトを始めて留学用の生活費を貯金し始め、目標額ぎりぎりしか稼げなさそうな月は友達と出掛ける約束を控えるようにした。学内応募のエッセイを何度も添削したり、奨学金の為に新幹線で面接を受けに行ったり、交換留学の為にかなりの労力と犠牲を払ったと思っている。しかし、交換留学を志したときはまだ、どこで何をしたいか目的も場所も何も決まっていなかったのだ。「何だそりゃ。」と思われるかもしれない。自分でもよくわからなかったのだが、確かに何かに憑りつかれたようだったと思う。だが今から考えてみると、大学で交換留学をすることが当然のこととしてあった第一義的理由には、高校二年生で経験した交換留学が影響していると思う。
高校で私は、多くの英語が話せるバイリンガルの友人に恵まれた。それもあって自身も英語を話せるようになりたいと思い、母にも助けてもらいつつアイルランドへ1年間の交換留学が決まった。生まれて初めての海外生活にワクワクしながら海を渡り、多くの学びも得た一方、実際の生活は簡単なものではなかった。まず、英語の能力が未熟な為か十分に意思疎通が出来ず友達もあまりできなかった。また、日本とはあまりにも違う食生活や生活環境が大きなストレスとなった。更には終盤、新型コロナウイルスが世界的に流行し始め、仲の良かった留学生の友達が次々と自国に戻らなければならなくなった。当初私は正式な留学期間が終わるまでホストファミリーの元にいようと早期帰国は踏みとどまったものの、学校に行けなくなり自室にこもるようになってから鬱のような症状と過食症状に悩まされ、1か月早く日本に戻らざるをえなかった。日本に帰国した私の体重は渡航前と比べて20㎏も増えており、急激に体重が増えたせいか足に不自然な線が浮き出ている状態だった。さすがに母も私を見て驚いたらしく食事に気を使ってくれ、段々と体重は戻っていったが、その後も満足のいく交換留学ができなかったことに対して自己嫌悪や罪悪感はなくならなかった。このアイルランドでの交換留学は、私の中で大きな挫折経験となってしまった。だから、大学でもう一度リベンジしたいという思いが入学前から既に強くあったのだと思う。この段階では交換留学を通して何かをしたい、というよりも交換留学自身が目的となってしまっていたが、大学での学びを深めていくうちに、それ以外の目的を抱くようになった。それは、自分自身が日本で暮らしてきて感じてきた息苦しさと結び付いている。具体的には、よい成績をとることや所謂「名門」と言われる学校に入ることが重視される日本の教育、根深いジェンダー問題などである。
高校でこそ国際的な環境に身を置いていたが、幼稚園から中学校までは典型的な日本の教育システムの中で育った。特に高校受験がそこかしこでちらつき始める中学では、常に良い成績を取ることだけが重視されていたように思う。そして私の場合、ほぼ毎回テストで学年一位の成績をとり、運動神経の良さからバスケ部でも活躍をしていた姉が同じ中学を卒業していたため、周囲から向けられる期待が重荷だった。女子バレーボール部の入部届を提出しに行ったとき、顧問の先生が発した第一声が「Oの妹?」だったのを今でも覚えている。「私もOですが」と言ってやりたかった。私を私として見てもらえていない、そう思った。しかしそうはいってもやはり、両親や姉を知る先生やクラスメートから「落ちこぼれ」というレッテルを貼られたくなく、私なりに部活も勉強も頑張った。しかし、たいして運動神経は良くなく身長も低かった私は部活で怒鳴られてばかりだったし、テストの点数も最初はあまり奮わなかった。私は次第に嘘をついて部活をサボるようになり、結局精神的にも身体的にも限界を感じて退部してしまった。その後は「勉強だけ出来ればいい」という風潮もあったせいかそう自分に言い聞かせ、学校にいる時間以外のほぼすべての時間を家での勉強に費やした。中学二年生からは塾にも行き始め、学校のテストでは学年一位か二位の成績を維持した。クラスメートからは持ち上げられ、先生にも親にも褒められるようになり、優越感を感じると同時に空しかった。中学で友達と遊んだ楽しい思い出もない。皆同じ方向を向かせられ、そこで成果を出さなければ認めてもらえない日本の学校生活が息苦しかった。
アイルランドでの留学でもハッとさせられた場面があった。私が、学校の先生に「あなたのお母さんは何の仕事をしているの?」と聞かれて、「ただの専業主婦です」といった際、「『ただの』なんて言っちゃだめ。とても大事なお仕事なんだから」と注意された。また、ホストファミリーでは専業主婦のホストマザーがテレビを観て休んでいても誰も何も言わず、むしろ毎日夕食を作ったり洗濯をしてくれたりすることに感謝の意を示していた。母が家の中を掃除してくれたり、ご飯を作ってくれたりすることが当たり前だと思っていた私は、自分の考えを改めさせられるきっかけとなった。
現在私は日本では両親と暮らしている。父は本来ならば定年退職の年齢だが、大学の学費が高いこともあって再雇用でまだ働いてくれている。しかし、そんな父は専業主婦の母が家事の傍らキリスト教奉仕のため、オルガンの教室に通っているのを見てモラハラをするようになった。具体的には「こっちは働いているのに、好きな事ばかりしていいな」「だれが養ってやってると思ってるんだ」のようなことを母や私に対して発したり、母がオルガンの練習をしに行くというと不満げな顔をする。もちろん父が苦労して働いていることは知っているし、そのおかげで大学にも行け、普段はお昼ご飯もつくってくれる時もあり感謝している。だが、だからと言って母が日々こなしている仕事に敬意を払うことを忘れてはいけないし、相手が言い返せないことを口にするのはどうかと思う。私がそのことを指摘すると、父は機嫌が悪くなる。そして波風を立たせたくない母に「上手くやってよ」(つまり「何も言うな」)と窘められる。正直その繰り返しに辟易としていた。家庭内のことに限らず、政治家には毎回中年男性の顔がずらりと並び、毎回うんざりさせられるし、女性に求められる極端な美の基準に合わせられない自分に少なからず嫌悪感を抱くのにも疲れた。インターネットで調べ物をしていると全く関係ない過激なエロ漫画の広告がふいに出てきて嫌な気分にさせられるのにも飽き飽きしていた。そんな中、フィンランドの至上最年少で女性首相となったサンナ・マリン首相のことや、手厚い子育て支援、学校で成績をつけない教育システムについて話を聞いたことを思い出した。インターネットでも調べるうちに、日本とは教育のシステムもジェンダー平等の状況も違うフィンランドで実際に生活し、日本で「当たり前」とされていることを外から見つめ直してみたいと思った。
ここでの生活を通し、学ぶことはたくさんある。特に、フィンランドでは学費が無料であることに衝撃を受けた。これは、教育が平等であるべきという理念の表れであり、日本ではなかなか想像できないことではないだろうか。世界各国から来ている留学生から交換留学の為に政府から資金をもらっていると聞き、羨ましいと思った。「日本でももう少し教育にお金を使ってくれたら父も今のように働かなくて済むのかもしれない」と考えると、やるせない気持ちになる。他の国では保障されているものが、日本では不足していて、それを補うために多大な努力をしなければならない。だからこそ、日本で生きるのが息苦しく感じられるのではないか。もちろん、日本にも良いところはたくさんある。フィンランドに来てから意外なことに、日本語を学びたいという人や日本を訪れてみたいという人にたくさん出会った。アニメや漫画は世界中の人を魅了する日本の財産だと誇らしくなる。だがやはり、日本には改善されなければならない問題がたくさんあると考えさせられる。
この頃、私の中に得体の知れない焦りがある。私はこれからどのように生きていけばいいだろうか。就職活動が迫る中、無意識に考えるのを避けている自分に気づく。ふと聖書の「受けるよりも与える方が幸いである」という言葉を思い出した。幸運にも私は周りの人のサポートと自分自身の努力と、おそらく運も合わさって、フィンランドに留学する機会を得ることができた。私はまだ人から与えられてばかりだ。この貴重な留学経験をどう活かし、人々に何を与えることができるだろう。フィンランドのサウナに入りながら、私は今もこの問いについて考えを巡らせている。(国際基督教大学3年)
E.O.さんについて。
昨年6月に行われた「青年の夕べ」に初めて出席し、今年3月には、沖縄の米軍基地問題に関わる2泊3日のスタディーツアーに参加したことから知り合うようになりました。現在ICU3年生で、今回フィンランドに留学したことを知り、現地の様子を知らせて欲しいと原稿を依頼しました。留学期間、複数回の報告をお願いしようと思っています。(飯島 信)