巻頭言

政治的知性と宗教的知性 小友 聡

先の参議院選挙では政権与党が圧勝した。野党共闘は改憲発議に待ったをかけるぎりぎりの議員数すら確保できず、政治の流れは安倍政権の思惑通りに進んでいくかに見える。やりきれなさと危機感が募る。昨年の安保法案強行採決の白紙撤回を叫んでも、また改憲反対の徹底抗戦を構えても、抗いがたい現在の政治的右傾化の奔流を果たして食い止めることができるか。この奔流の先には、かつて経験した負の歴史が透けて見える。歴史は繰り返す。明治維新から近代日本百五十年の歴史を振り返れば、その前半の七十五年は富国強兵に邁進し、欧米列強の仲間入りを果たしたあと、「大東亜戦争」に突入して、ついに破局的結末で終わった。二十五年を一世代とすれば、その第三世代ですべてがひっくり返った。近代日本後半期の歴史もこの前半期に極めてよく似ている(中島岳志/島薗進『愛国と信仰の構造』集英社新書)。戦後七十年を振り返れば、戦後復興を見事に果たし、ジャパン・アズ・ナンバー・ワンを謳歌し、その後、バブル崩壊と不透明な時代が続いて現在に至る。前半期七十五年において第三期は皇国史観によって国家が破局に向かう二十五年であったが、これは敗戦後の第三期、すなわち一九九五年バブル崩壊以降の現在と対応している。この二十五年で経済不安や閉塞感が徐々にナショナリズムの台頭を促し、国防意識が煽られ、水面下にあった皇国史観が再び顔を出してきた。戦前に逆戻りと言われる通り、日本が全体主義化してきているのは否定しがたい。

 キリスト者として今、どういう態度を取るかが問われる。キリスト者同士がさらに連帯を強め行動を起こすことが急務だろうか。野党共闘にコミットし安倍政権との徹底抗戦を構えるべきだろうか。けれども、そのように行動する以外に選択肢はないのだろうか。『共助』は政治と宗教は切り離せないという認識を共有しているが、政治と宗教の距離感覚についてはキリスト者の間に温度差がある。もし政治と宗教の直接不分離が主張されるなら、信仰共同体は惨い仕方で分裂する。政治に対する宗教性は、政治を相対化する視点を保持することであって、その相対化は寛容とも同質である。

 政治的知性は現実を的確に把握するが、宗教的知性は常に最悪のシナリオを考え、そこから新たな共生と希望の言葉を紡ぎ出すことだと筆者は考える(コヘレト一一章一―二節)。政治を突破したところを見据えるのがキリスト者の信仰ではないか。「終末」とは日本の全体主義化ではない。この歴史の終局に、キリストが天から降り、神の国が到来する。この終末論的思考が失われれば、信仰はただの政策になる。旧約聖書の中で、政治も政略も万策尽きて、自らに危機が迫った時に、ダニエルは一人で「いつものとおり」「祈りと賛美を自分の神にささげた」(ダニエル書六章一一節)と記される。その祈りがダニエルに試練に耐える覚悟を与え、信仰的決断を促し、歴史は逆転した。キリスト者が危機に直面した時に、果たすべき使命は政治的判断で行動することよりも、むしろ祈ることではないだろうか。