品位とは 久米あつみ
アメリカ大統領が決まった。今は深い虚脱感の中にいる。三回にわたる両候補のテレビ討論を見たがおよそ大統領候補の演説会とは言えぬ、ひどい言葉の応酬だった。特に第三回のそれは、アメリカという巨大な国を背負って立つ政治家としての矜持も誇りも見られず、国内外の問題にどう取り組むかという決意も政策表明もなく、ただただ相手のパンチをかわすだけの低次元なけんかに見えた。これまでの大統領選挙で、はじめははてな? と思う人がいても、一年以上にわたる選挙戦の間には鍛えられしごかれて、視野も広くなるしリーダーシップも身についてくるかと思ったが、今回のトランプ氏に関してはどんどん低級化するばかり、それにつられるようにクリントン氏の言説も成長するどころか狭隘になっていくように感じられる。トランプはマスメディアが不正に彼を扱ったと言っているが、これだけマスメディアが彼を持ち上げなければ、ここまでのし上がることは難しかったろう。少なくとも他国の我々までその言動の隅々まで知ることはなかったはずだ。この恐るべき茶番劇に学ぶべきことがあるとすれば、本人たちよりもむしろこうした演説や選挙運動を見聞きし、受け取る側つまりアメリカなら投票者たち、それ以外の国なら傍観者たちが候補者たちの一つ一つの発言や挙動にふりまわされ、雰囲気にのまれて「気分」での判断をしてしまう恐ろしさを自覚することだ。
トランプ氏がここまでのし上がった背景には人種問題特に移民問題、経済問題、宗教問題と、あらゆる社会問題があり、貧困層の不満がマグマのように吹き上がってトランプ旋風を巻き起こしていることは承知しているが、彼個人に関する限りその人格にも言説にも品位といったものが見られない。ここで品位とは何かといえば、それは人間を人間たらしめている尊厳であり、世界の中の自分といったものの小ささ、と同時に使命を知る者の尊厳であろう。顧みて自国の政治や行政の歩み方を思うとき、品位などという語は忘れられているかの如くである。
話は飛ぶようだが、田畑のほか何もない空間を描いたゴッホの絵や、人の懐を狙ういかさま師を描いたカラヴァッジョの絵に、類似絵にない品位を見出すのはなぜか。彼らが世界の大きさを知り、その中における〝自分〟の位置と小ささを知っているからではないか。今年の降誕節は「主よ憐れみ給え」と祈るほかない季節である。