クリスマス 神が人間になった日 ―クリスマスを迎えるにさいして  大塚 野百合

クリスマスを迎えるとき、私たちは、子供のときのように 心がときめくことはあまりありません。クリスマスのことな ら、全部分かっている、と思っているからです。クリスマスは、 神が人間を救うために、イエスという人間となり、赤子とし てベツレヘムで生まれてくださったことを祝う日だ、だから、 私たちは、この日を喜びの日として祝いましょう、と思います。 大した感動なしに、毎年のようにその日を迎えます。

ところが、深く考えてみますと、私たちは、クリスマスの 本当の意味を理解していないのです。「神が人間になった」と いうことが、どれほど驚くべきことであるか、を信仰の先達 が教えているのを見て、私たちは、初めてクリスマスの意味が分かるのです。

受肉の神秘に驚嘆したスザンナ・ウェスレー

一八世紀のイギリスに霊的革命を起こし、メソジスト教会 の基礎を築いたジョン・ウェスレーの母スザンナは、熱い信 仰に生き、牧師夫人、また牧師たちの優れた母として、息子 たちに影響を与えました。彼女は一七一〇年四月二日棕櫚の 日曜日に長い記事を日記に記しています(『全文書三〇七頁― 三〇九頁』)。次に引用するフィリピの信徒への手紙二:六―八 に基づいて、神が人間の形をとられた受肉の神秘について、 深く考え、驚きの思いを述べています。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者で あることに固執しようとは思わず、かえって自分を無に して、僕しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも 十字架の死にいたるまで従順でした。  

「わたしの魂よ、主をたたえよ。 わたしの内にあるものはこぞって、 聖なる御名をたたえよ。」(詩編一〇三:一)

という賛美の言葉で文を始めた彼女は、「イエス・キリストは 私たちと同じ人間となり、僕しもべの形をとられた。これは何と驚 嘆すべきことか!」と最大級の驚きの叫びをあげています。 非常な驚きを示す二つの言葉stupendous, amazing を用いてい ます。そして続けます。「それゆえ全人類は最高の賛美を捧げ るべきです。」賛美という言葉も、adoration, praise という二つ の言葉を使っています。 ところが人間たちは、このような私たちの理解を超えるほ どの愛を示していてくださる神の愛にたいして感動していな いとは、不思議であり、イエス・キリストの苦難と死にたい して世界の多くの人々が関心がないとは、なんと嘆かわしい ことか、とスザンナは訴えています。

キリスト教のイロハのイである受肉の真理である神がイエ ス・キリストによって人間になりたもうた、ということに対 して、私たちは驚きを失っているのではないでしょうか。と ころがスザンナは、心の底から驚嘆して、神を賛美している のです。(『スザンナ・ウェスレーものがたり』教文館、八章参照)

トーマス・マートン―人間であることの歓喜  

私はスザンナのこの記事を読んでトーマス・マートン (一九一五―一九六八)を想起しました。彼はアメリカのケンタッ キー州にあるゲッセマネ修道院の有名な修道士です。彼はあ るとき近くのルイヴィルという都市を訪れたとき、驚くべき 啓示を示されて、喜びのあまりに大声で笑ったというのです。 その啓示とは、神が人間になられた、ということは何と素晴 らしいことであるか、ということです。彼は次のように述べ ています。

人類の一人であるということは、なんと栄光にみちた運 命でしょうか。この人類は、多くの愚かしいことを行い、 恐るべき過ちを犯していますが、それにもかかわらず、神 御自身が人類の一人になることを栄光にみちたことと思われたのです!

このようなあたりまえのことに気付いて、 あたかも宇宙的な宝くじが当たったようなニュースと感じ るというのは、なんと驚くべきことでしょうか。

マートンは、神が人間になられたということは、素晴らし いことだ。人間は罪深いが、神がその罪に穢れた人間になる ことを栄光に満ちたことと思われたとは、なんと驚くべきお 恵みか! そのように考えると、人類の一人であることはな んと栄光にみちた運命であることか、と歓喜の叫びをあげて います。このようにマートンは人間であることは素晴らしい、 と喜んでいるのです。彼にとってこの経験は彼の人生を変え るほど大きな経験で、かれはこれを「ルイヴィル体験」とよ びました。  このように、人間となられた神を心から賛美したスザンナ とマートンにとって、クリスマスは素晴らしい祝祭日であっ たはずです。(自著『あなたは愛されています ヘンリ・ナウエンを 生かした言葉』、第四章参照、教文館)

クリスマスの祝い方

それでは、私たちは、どのようにクリスマスを祝えばよい のでしょうか。ルターは、『クリスマス・ブック』(新教出版社) のなかで次のように述べています。

キリストが私たちのうちに形づくられること、これこそ この祝日のただ一つの祝い方です。  

またドイツのアンゲルス・ジレージウスという十七世紀の カトリックの詩人は、次のような詩を書きました。

キリストがベツレヘムに千回も生まれたもうたとしても、 キリストがあなたの心にお生まれにならなければ、 あなたのたましいは、救われません。

ところで、讃美歌一一五番「ああベツレヘムよ」は子供の ための可愛いクリスマスの歌ですが、その第五節で作詞者 フィップ・ブルックスは、キリストに子供たちが「今日、私 たちの中に生まれてください」と祈る姿を描いています。

一節と五節を私訳と原歌で紹介します。

1 ああ ベツレヘムの小さな町よ、あなたはなんと静 かでしょうか!
あなたが夢も見ずに深く眠っている時に、静かにお星さまが流れています。
そこの暗い道には永遠の光が輝いています。
人々の長年の希望と恐怖があなたの町で今晩出会っているのです。

5 ああ ベツレヘムの聖いみ子よ、私たちに下ってください。
私たちの罪を追い払い、私たちの心に入り、今日、私たちの中に生まれてください。
クリスマスの天使たちが喜びの訪れを告げるのが聞こえ ます。
ああ 私たちのところに来て、私たちと共に住んでください。
私たちの主インマヌエルよ!

1 O little town of Bethlehem, how still we see thee lie! Above thy deep and dreamless sleep the silent stars go by. Yet in the dark streets shines the everlasting Light; The hopes and fears of all the years are met in thee tonight.

5 O holy Child of Bethlehem, descend to us, we pray; Cast out our sin, and enter in, be born in us today. We hear the Christmas angels the great glad tidings tell; Oh, come to us, abide with us, our Lord Emmanuel!  

クリスマスに、私たちの中に主イエスが生まれてくださることを祈りたいと思います。

ティーリケの「暗黒のただ中に」

私たちの中に主イエスが生まれてくださると、私たちは、 どのような人間になるのでしょうか。そのよい実例が次に述 べるヘルムート・ティーリケ(Helmut Thielicke, 1908~1986)です。 彼は、二十世紀の世界に大きな影響を与えたドイツの偉大な 神学者、また、説教者です。彼は主イエスを私たちが本当に 信じ、私たちの中に主が生きておられると、暗黒の世界のた だ中に生きていても、主イエスのみ力によって、暗黒が光に、 絶望が希望に変わると説教しました。「暗黒のただ中に」と いう彼の文章は、つぎの言葉ではじまります。

神の国は、イエス・キリストのいまし給うところにある。 イエス・キリストは、しかし、この世の最も暗いところに いつもとどまってい給う。洗礼者ヨハネが「きたるべき方 はあなたなのですか」と問うたとき、イエスは答えられま した。「目の見えない人は、見え、足の不自由な人は歩き、 重い皮膚病の人は清められ、耳の聞えない人は、聞こえ、 死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている」 と。……神の国は、まさに地上の暗闇のただ中に、諸国民 を覆っている暗黒のただ中にさしこんでくる光であろうと する。

(ティーリケ著、大崎節郎訳『主の祈り 世界を包む祈り』新教出 版社の第四章「み国がきますように」)

 主イエスのいましたもうところが神の国であり、神の国は、 地上の暗黒のただ中にさしこんでくる光であるとは、なんと 力強いメッセージでしょうか!

 主イエスは、世界の最も暗いところに居てくださるのです!

 現在の日本と世界を覆っている暗黒を考えるとき、私たち は日本の、世界の未来について、明るい希望が持てないほど の虚脱感におそわれます。そのような私たちに、ティーリケ は励ましと慰めに満ちたメッセージを伝えています。
 彼は祈りについても、大変示唆に富んだ文章をルカ一八章 「やもめと裁判官」のたとえについて書いています。

 貧しいやもめが神を恐れない裁判官を何度も訪れて、自分 のために正しい裁きをしてくれと頼みます。あまりのしつこ さに裁判官は裁きを行ないます。このたとえについてイエス は「神は速やかに裁いてくださる」と言われました。

 ティーリケは、このよるべのない寡婦の姿に、苦難のなか にある現代の教会の姿を見ています。神はほんとうに祈りに 答えてくださるのかという疑いがキリスト者に浮かんでくる ときがあります。それにたいしてティーリケは力強く宣言します。

神はこの寡婦の願いを聞くと約束されました。神の心に 影響を与える者は、世界を支配します。この貧しい寡婦は、 まさに世界を動かす力なのです。

 貧しい寡婦の祈りが神に届くと、神はそれに答えて、世界 を動かしてくださるというのです。私たちは祈るとき、「私一 人が祈っても、なんの変化も起こらないだろう」と思ってし まいますが、それは大きな間違いです。神は、私たちのよう な弱い者が心を込めて祈るとき、私たちの貧しい祈りを聞い てくださるのです。それですから、自分と家族、友人たち、 危機的状況にある日本と世界のために真剣に祈りましょう。 私たちが祈らないと、神はその威力を発揮することがお出来になりません。

 (クリスマスの有名な賛美歌七曲について『「きよしこの夜」ものが たり』、教文館で解説を書いています。)