随想

カール・バルトのキリスト論(後半)計良 祐時(けら ゆうじ)

人間の高揚

上には、神の自己卑下によって、人間の救いの業が遂行されたことを述べた。その救いの業は、同時に神の自己卑下を根拠に生起する人間イエスの現実存在を通して行われる。人間イエスの現実存在において罪の制約下にある人間本性が、罪のない本来の人間存在に実現されるゆえに、バルトは、その現実存在を人間の高揚と言う。しかし、人間の高揚は、神の自己卑下を根拠にするが、あくまでも、罪を排する人間イエスの現存在の行為、その人間主体の行為を通して生起する。したがって、人間の高揚では、イエス・キリストにおける人間の現存在の行為が、重要な点となる。

バルトは、人間の高揚の根底にあるのが、人間イエスの神への服従であると言う。人間イエスは、自分の外なる神の意思への服従において自己を選び取る。本来の人間性は、人間が独自に自らにおいて実現する可能性ではなく、イエス・キリストにおいて認識されるものである。それは、人間が共存的他者(隣人)との関係にありつつ、神との関係において実現するように、人間に神から贈与されているものである。それは、神自身により限定され、かつ、神から開かれる可能性である。すなわち、それは、人間が、神の決断に自己の人間的決断をもって服従することによって限定されると同時に、神の未来に向けて開かれる可能性である。かくして、人間イエスは、神に向けて完全に自己を開放し、神の意志に服従し、神から生きた。かようにして、人間イエスの現実存在は、神への完全な開放性において遂行された、人間の高揚の出来事である。

人間イエスの神への開放性は、人間イエスへの神の開放性に対応している。イエス・キリストにおける神と人間は、相互に開放的関係にあることを、バルトは強調する。神の子は、その永遠の自己決定により、自己の外である人間イエスの人間性に向けて、その神性を活動化させることにおいてご自身である、あるいは、神の子は、人間イエスとの一体性において自己であり、それ以外において自己であろうとしない。これを受けて、人間イエスは、現実存在の可能性としての人間性を現実化し、その現実存在を遂行する。神の子が神の子であることと、人間イエスが人間イエスであることが不可分の関係にあり、その神性を活動化させる神の子が自己帰還するのは、人間イエスが、人間性を真の人間存在に実現し自己に帰還することにおいてである。本来自己自身において完全に自己自身である神が、このように自己の外に関与する存在であることをもって、バルトは、神の存在の開放性と言い、それに、人間イエスの神への開放性が対応しているとする。

したがって、この神の存在の開放性は、神がその存在を危機に至らせるという側面を持つ。すなわち、人間イエスが、罪の制約下にあって罪を犯さず真の人間となり、自己に帰還するか、あるいは、罪の誘惑に屈し偽りの人間になるかが、神の子の自己帰還に関わる。人間イエスの自己帰還がなければ、神の子の自己帰還はない。イエス・キリストにおける神の存在の人間存在への開放性は、神が自己の存在を危機に至らすことを意味すると同時に、人間イエスの現存在に対して規定性を与え、その危機を排除することを意味する。このように、イエス・キリストの出来事が、神の存在と人間の存在が同時に生起する特別な出来事であるゆえ、バルトはイエス・キリストの出来事を「歴史」という概念で理解し、これを伝統の概念から厳密に画する。伝統の概念は、神と人間をそれぞれの存在と本性を静的に捉え両者を関係させ、両者の開放性を捉えないからである。また、神の自己卑下は、罪に墜ちた我々人間のために、自己の存在を危機に至らすまでに己を低くする神、そのようにしてまで我々人間を愛する神を言い表す。この点は、後に三位一体との関係で更に述べる。

神の自己卑下と人間の高揚の共通の目的点である十字架

イエス・キリストの十字架は、神の子の自己卑下と人間の高揚との共通の目的点である。その目的点に向けて、神の子はその神性を活動化させ、人間イエスはその人間的本性を神への服従において実現していく。その結果、人間本性がその本来の真理において実現された人間イエスは、十字架で死を迎える。それをもって、神と人間、人間と神との和解の業が完了する。そして、イエス・キリストの復活によって、和解の業は、我々人間に対して有効化される。

しかし、復活がなかったならば、その有効化はなかったこと

になる。その場合、イエス・キリストにおいて働いていた神の真理、そこに実現された人間本来の真理を、人類は知ることはなかった。そして、人間イエスを十字架へと追いやったこの世の闇の力が、人類にとって、この世を支配する最高の規範となり、それは、神がその闇の中に人間イエスを、そして人類を見捨てることを意味した。また、イエス・キリストの出来事は、人類の忘却へと放ほうてき擲されたことになった。しかし、復活があり、十字架のその後が決定づけられた。それを、次に述べる前に、十字架との関係における神の三位一体の存在について述べる。

十字架での人間イエスの死は、ただ人間イエスの終わりだけではなく、人間イエスとの自己同一化を選び取った神の子の終わりをも意味し、父なる神が子なる神を永遠において失うことをも意味する。被造物である我々人間を失うことは、神にとって可能である。それに対して、子なる神を失うことは、いかなることか。バルトは、この点について、顕現的には述べていないが、筆者は以下のように理解する。イエス・キリストの歴史が、十字架で終わったならば、神の子も終わり、父なる神が、子なる神を永遠に失うこと、さらには、神が三位一体の神であることの終わりが、論理的に帰結される。しかし、神の三位一体性の終わりは、神の終わりではない。神にとって不可能なことがあるとすれば、神が神であることを止めることである。しかし、三位一体の神であることを止めることは、神にとって可能である。筆者が師事したガイヤー教授によれば、イエスの死は、神が三位一体の神であり続けるか、それとも、その三位一体性から退却するかの可能性の「息も出来ないほど緊迫する瞬間」である。人間イエスの復活は、我々人間の救いに関わっていたが、同時に神の存在の在り方、三位一体性に関わっていた。神の自己卑下は、罪に墜ちた人間のために三位一体の生命を危機に至らせるまでに己を低くする神をも言い表している。

復活―もう1つの神の行為

人間イエスの十字架にいたる出来事が、子なる神の行為であるのに対して、人間イエスの復活は、父なる神による行為であった。イエス・キリストの歴史が、復活なしに終わり得るという可能性は、神により事実的に排除された。それは、父なる神の完全な自由において生起した、いかなるものにも制約されていない行為であり、神の愛によるものである。神の愛は、「神がそれをもってこの世と人間にみ顔を向けたところのもの、そして、その罪にもかかわらずこの世と人間に赴くことを止めない」ところのもの、「人間が罪人として堕ちていった失われた状態を前にして、むしろそのことによって一層この世と人間へと赴いた」ところのものである。そして、この世に対する神のこの愛は、父なる神と子なる神の間の愛に、揺るがない根拠を持つ。すなわち、それは、父なる神と子なる神が、子なる神と父なる神が、それによって一体となっている永遠の愛を、この世の神との和解を抜きにしては出来事としないという、神の永遠の自己決定の中に根拠を有するのである。

その復活によって、十字架をもって完了した神の救いの業は有効化され、我々は、それに与る者となる。先の「神の自己卑下の目的と意義」で、十字架では、罪人を裁く神の義と被造物に対する神の権利主張としての神の義という、神の2重の義が立てられたことを述べた。第1の神の義は、人間イエスが、人間の罪が作り出す虚無・闇の現実の中に自己を放擲することで、第2の神の義は、人間イエスが、神の意志に完全に服従する、神が本来意図した真の人間存在であることで立てられた。

十字架が、人間の罪により生じる闇の力に自己を渡す、子なる神の行為であったのに対して、復活は、十字架の出来事の中に立てられた神の2重の義を、我々人間に対して有効化する、父なる神の行為であった。そして、存在的には、神の子は永遠にわたって人間イエスとの同一性において存在するものとなった。

十字架と復活はともに、そこで神の存在が出来事となっているという意味で「歴史」という特別な概念でバルトにおいて理解されている。それゆえ、それは、特別な〈完了した歴史〉として、〈完了した史実〉とは異なる。

復活の前提である十字架

父なる神による復活の行為が、神の自己決定による、完全な自由な行為であり、十字架の必然的な帰結ではない。しかし、復活は、十字架で立てられた神の2重の義を前提としている。その前提により、神がその三位一体の危機を排除し、和解の行為を有効化する復活があった。そして、その前提が前提たり得たのは、和解の行為として立てられた神の2重の義の完全性による。そして、この2重の義は、神の自己卑下の完全性と人間の高揚の完全性に対応する。すなわち、神の自己卑下によっては、罪に墜ちた人間を裁く神の義は、本来的な真理へと高揚された神の子の人間性が、虚無へと渡されることをもって、貫徹された。また、人間の高揚によっては、人間に対し、本来の人間性を実現する神の義は、人間イエスが、その人間性をその本来の真理において実現すること―これは、最終的に十字架で自己自身を虚無へと放擲するという、神への服従となった―によって貫徹された。それは、同時に、神の子が、父なる神への服従において、父なる神を喪失することへ、神の子であることの終わりへと自己を放擲することであった。

死者の蘇らせは、この2重の義の完全性、神の自己卑下と人間の高揚の完全性に続いて生起した歴史である。イエス・キリストの地上の歴史においては、御子の御父への愛が主要な役割を果たすが、死者の蘇らせでは、御父の御子への愛が主要な役割を果たす。このようにして、十字架と復活は、共に神の内的な自己決定の貫徹の歴史である。

十字架は、神の子の自己卑下の究極の低み、すなわち、神の子が父の子であることの最終的危機でもある。神の子が、自己を危機に至らせることが、神の三位一体内的出来事であるゆえ、十字架は、同時に神の子の受苦の極限にとどまらず、父なる神の受苦の極限を意味する。しかし、神の神性の究極の低みに、人間性の最高の高みが対応する。十字架は、人間イエスが神に対してなす究極的服従行為であり、人間性の真理の最高の高みである。人間性の最高の高みは、神性の究極の低みによって獲得された。十字架に架けられた者の御父による蘇らせは、十字架において神の存在の究極の低みを通して獲得された人間性を、御父が御子のそれとして、永遠にわたって保持することを意味する。かつてイエス・キリストにおいて神により受け取られた人間性は、永遠にわたって神により保持される。神の永遠性において、人間性―人の子として死に、復活した神の子の人間性が存在する。かくして、神の子は、高揚における人間イエスとの同一性の中にある。よって、イエス・キリストは、真の神であり真の人である。

現在の時、教会の時

バルトによれば、イエス・キリストの復活の歴史は、端的に彼の死の彼方における歴史であり、啓示の歴史として生起した。イエス・キリストは、地上の歴史において、理解され、また、誤解されたが、弟子たちによる彼についての真正な認識は、復活の歴史においてなされる。復活の歴史は、イエス・キリストが、自己についての認識を、人間に対して、人間の認識によらず「排他的に」可能とする、自己啓示の歴史である。

そして、バルトは、この復活の歴史の後の時間を、教会の時間として理解する。教会の時間において、イエス・キリストは、あの復活の40日間において到来したのとは違う仕方で到来する。あの40日間の最後の日、イエス・キリストは、神の王座がある天に昇った。教会の時間は、昇天の後の聖霊降臨に始まり、イエス・キリストの再臨をもって終わる。この時間の中で、イエス・キリストは聖霊において到来する。それをもって、我々の人間性は、イエス・キリストの人間性のように、その根源的真理へと高揚される。十字架で死に、復活した者の聖霊における到来は、我々の人間存在を神と共にある存在として構成する。

十字架と復活は、神が我々と共にあるために、自らに対して選んだものである。この契機なしに、神は、我々のために存在することはしない。それは、神がそれをもって自己の存在を我々のための存在として資格付けるところの、神の自己規範である。十字架と復活によって、神は、我々と共にあろうとし、事実我々と共にある。そして、それによって、我々は、神と共にある。それゆえ、イエス・キリストは、死んで蘇った者として聖霊において到来する。イエス・キリストの到来によって、我々の神と共なる存在が可能とされる。彼の到来は、その存在が永遠の自己決定を貫徹することにおいて出来事となっている神の現在である。十字架と復活が、完了した史実ではなく、完了した1回限りすべての時に対して生起した歴史であるというバルトの歴史概念は、こうした現在の時間理解を有する。

結語

以上、バルトのキリスト論について述べた。我々人間が生きるその時々の現在は、キリストの到来の中の時間であり、神が我々人間と共に生きるために、三位一体の生命をかけて獲得された時間、神が三位一体の生命をかけて人間の罪を赦し贖われたゆえにある時間である。それゆえ、我々人間は、その時々の現在を神の愛と生命が込められた時間として見いだし、見いだすゆえに開かれる可能性に向かって、すなわち、神の未来に向かって生きる者とされている。

しかし、これは、神がくださる信仰において可能であり、人間の能力には不可能である。バルトにおいて、信仰は、どこまでも、神が人間に対して可能とする可能性であり、人間にとっての不可能性である。信仰を神に求めるところに、我々は、キリストの到来の中に生きる者とされる。それが、イエス・キリストにおいて実現された真の人間性を目的としていることを、そして、それを最終的な形で我々が知るのは、キリストが再び来られる時となることを、この神学は語っている。

*本稿は、拙著『カール・バルトのキリスト論研究―伝統概念の超克としての歴史概念によるキリスト論』(日本基督教団出版局、1998年)を基にしている。(日本基督教団隠退教師)