随想

奥田義孝兄 ― 静かで強い人を偲ぶ ―牧野 信次

奥田義孝兄が去る4月9日に僅か一か月足らずの入院で心不全とのことで召天され、14日に中渋谷教会でコロナ禍にあっても本城仰太牧師の司式の許に葬儀式が行われた。彼自身が準備したであろう式次第の故人略歴を以下に記します。

故人略歴

1936年10月17日、父成孝、母恒子の長男として京都に生まれる。父成孝は北白川教会初代牧師で、牧師家庭で育つ。京都学芸大学(当時)付属小・中学校、京都府立洛北高校、慶應義塾大学商学部(入学時は経済学部)を卒業。

1966年12月25日、中渋谷教会で受洗(司式:山本茂男牧師)。教会では会計長老のほか、特に教会規定策定、再開発問題にかかわる。

1967年2月5日、愛子(旧姓平井)と結婚。

1970年3月16日、長男孝明を授かる。

1973年6月11日、長女祐子を授かる。

・三菱銀行(現三菱UFJ銀行)、森永製菓に勤務。

・日本聾話学校(理事長4年、理事通算22年)、フェリス女学院(理事長7年、理事通算15年8か月)の学校経営にもかかわる。

・2022年4月9日に逝去(享年85歳)。

私は1973年秋に帰国して直ぐに町田市の鶴川集会によって開拓伝道を開始し、それが後に鶴川北教会となった。翌年8月に初めて京都の北白川教会の礼拝を訪ね、奥田成孝先生ご夫妻とも親しく語り合え、共助会や私の恩師浅野順一先生のこと、また義孝兄(愛子姉は私の妻・恵美子の従姉)が三菱銀行京都、銀座支店を経てロンドン支店に赴いたこと等を伺った。義孝兄とは同窓同期(彼は一歳年長)で私も都市銀行に勤務したが3年後に故あって辞職し、伝道者を志したことなどを話したことを想起する。鶴川北教会に故佐伯邦男・澄子ご夫妻、和田健彦兄(父・和田 正先生も時々訪ねてくださった)が連なり、奥田先生ご一家のことが共通の話題となり、親族の集いなどでも、私もいつしか義孝兄と語らう機会があり特に日本聾話学校理事会で席を共にし、帰途を共にすることが多くあった。彼と理事会に同席する日聾経理担当職員の市橋みはるさんの記述を紹介します。

奥田さんが理事長を担ってくださったのは2009年度から2012年度までの4年間だったから、決して長かった訳ではない。けれど存在感は抜群で! 理事長来校日は予算決算にどんな質問が飛んでくるか、上司と共に緊張しながら準備したものだった。例えば一つの帳簿を縦横合計の平面でとらえていても、数字の意味や変化、他の要素との関連等で質問される。会計は学校の姿を数字に映す鏡が磨かれてゆく感覚があった。その過程は仕事として面白くもあり、ただ同時に、毎回冷や汗をかく羽目に陥り、及第点をいただけずに「次回までの宿題」をいただくこともあった。それでも最後には「OK、NEXT!」の一声が出るのが張り合いで、私は密かに「NEXT氏」と呼んで理事長来校を楽しみにしていた。奥田さんは幾度か「ぼくは心情としては中渋谷の代表として(日本聾話学校に)来ているつもりだから」と言われた。そして「昔、大嶋 功先生にCSの校長を頼まれて、その時には仕事が忙しくてお受けできなくてね、理事長を頼まれた時は、これでやっと功(こう)先生に、合わせる顔ができたなと思ったんだよ」と言われたのだった。

義孝兄が銀行の国際本部企画室で国際金融の重要な任務を負われたと伺ったが、その活躍ぶりは想像するしかありません。

彼の最晩年に中渋谷教会の渋谷駅桜丘地区の再開発問題に関わり、全経験を活かし献げて新会堂が完成し移転したのは2020年5月で、そのほぼ2年後に葬儀式がしめやかに行われたのです。彼が共助会会員でないので入会を薦めたことがあったが、自らの教会に誠実に奉仕すると言い、ルターの「キリスト者の自由」の2命題を引いて「自由と奉仕」を生きたいと語った。私はそれこそ「共助会の精神」を生きることと共鳴し、それ以上何も言えなかった。義孝兄は実に静かで強い人でした。ご遺族にキリスト者・英文学者が最愛の伴侶を御国へ送った際の歌を捧げます。

わが家にはひとり缺(か)けたり

しかはあれど天にはひとり増し加はりぬ

(日本基督教団 隠退牧師)