【佐久学舎報告】聖書研究の1番の目的は祈りだ 湯田 大貴(ひろき)

その言葉に衝撃を受けた。こんな聖書研究今までしたことないと、そう感じた。

去る平成最後の夏、私は「佐久学舎聖書研究会」に参加した。私は普段はアメリカのセントルイスで大学院生として数学を勉強している。この夏はたまたま日本に帰ってきており、友人から5泊6日の聖書合宿のようなものがあるという話を聞いて、最終日の翌日に渡米の予定だったが、私は迷うことなく、それに参加することを決めた。恥ずかしながら自分は川田先生について何も知らなかった。ただ1週間もの間、都会の喧騒を離れて、聖書の勉強に集中することができる。それだけを求めて合宿に参加した。

初日の夕方くらいに初めて川田先生がお見えになった。「湯田大貴と言います。今はアメリカの大学院で数学を勉強しています」と言うと「そうかそうか、よく来た」とおっしゃって、心暖かく迎えてくださった。

一通り皆さんとの挨拶を済ませると、川田先生は自分の半生を語り始めた。語り始めて数秒で直感的に思った「この人は嘘をついていない」。なぜだろう、理由はよくわからない。でもそこには確信があった。一般的に人は年を取れば取るほど、保守的になったり、視野が狭くなったり、心が頑なになったり、自分のやってきたことに固執したりしがちだと思う。その結果、人は嘘をつく。自分の積み上げたことに縛られ、世間体を気にして、本音を喋ることを忘れてしまう。しかし、川田先生は、自分の人生を聖書研究やギリシャ語研究に献げたのにも関わらず、どこかで、それを今ここで捨ててしまっても構わないというような強い意志を感じた。

きっと、それは神への畏れだ。形だけの薄っぺらい畏れではなくて、本当に生活の実践の中で、神への畏れが川田先生にはあるのだと思う。「神様の偉大さに比べたら、自分のしてきたことなど、本当にちっぽけなものに過ぎない」そんな風に考えているのではないか。だからこそ、先生はあれだけ柔和かつ正直でいられるのだ。その畏れによって、今までの先生の全ての経験は、自分を縛る足枷ではなく、自分の言葉にリアリティをもたらす礎となる。だから先生の言葉には重みがある。それは僕の心を揺さぶる。

先生の語った言葉で1番印象的だったのは次の言葉だ。「聖書研究の1番の目的は、祈りだ」

今まで私がやってきた聖書研究は大きく分けて2種類であった。1つは論理的にコンテクストを重視して読む方法。もう1つは、自分の感性を大事にして、聖書から感じたこと思ったことを皆と共有しながら進める方法。佐久学舎の聖書研究はその両方の弁証法とも言うべきものであった。発表者が担当箇所を読み込み、背景情報や注釈書を調べ、自分の言葉でまとめなおすことが期待されている一方で、聖書のテキストから自分が何を受け取ったかを共有することもまた求められていた。面白いのは、その2つのパートが完全に分断されているわけではなく、むしろ有機的につながっているということだ。入念に下調べをするというコストを支払ったことにより、発表者はテキストに対してもっと真剣に向き合うようになり、発表の最後に「私」を主語として話すときにも説得力が増す。

発表後のディスカッションにおいては、前半のテキスト分析よりも、後半の自分に引きつけて読んだ部分の方が取り上げられ、発表者が話した本音に、オーディエンスも本音で応える。そこに、佐久の不思議な魔力がある。普段は自分を偽り、忖度にまみれた自分の心の鎧が剥がされていくのを感じる。おそらくそれは、参加者全員が佐久学舎を〝safe〟な場所として認識しているからだ。これは考えてみるとすごいことだ。初めましての人もたくさんいる中で、こんなに心の奥底をさらけ出したことがあるだろうか。全ては川田先生の人間性に起因していると私は考える。川田先生の1人1人をwelcome したりrespect したりする姿勢、日本語で言えば「あったかい」と思わせるような、その人間性が参加者全員に伝播して、〝safe space〟を作り上げているように思う。これが佐久の魔力の正体なのではないか。

本音と本音がぶつかったディスカッションの後に、それぞれが神の御前に立たされる祈りの時間がやってくる。川田先生は「祈りは神様との対話だ」とそう言った。本当にそう思う。ディスカッションで鎧が剥がされて、むき出しになった心で、神様と対話する。それは普段のそれとは全く異なる。自分はいつでも正直に神様にお祈りをしていると思っていた。確かにそれは嘘じゃない。でも、「正直さ」のレベルがまるで違う。神様の光によって、心の隅々まで照らされているような感覚になった。ここまで照らされたら、隠れるようなところなんてどこにもない。誰でも諦めがついて、自分の本音を吐露しだす。30人以上の人間が輪を作り、自分の心の1番奥底をさらけ出し合う。正直言って異常とも言える光景だ。でも、それこそが佐久学舎の聖書研究の真髄だと思う。

1人1人の本当の言葉によるお祈りが終わると、みんなで「主の祈り」を唱えて、最後に川田先生の力強いアーメン三唱。こうして魂の揺さぶられるひと時が終わる。

私は、この佐久学舎での学びを通して、本音で語ること、私を主語にして語ることがいかに難しく、そしていかに大切なことかを再認識した。佐久の山を降りたあとも、川田先生のように、本当の言葉で祈り、生活し続けることができるようにと切に願う。