随想

佐久学舎2020 応答1 林織史

〔前号(2020第8号)において「佐久学舎聖書研究会」の取り組み報告を掲載しました。そこでは《呼びかけ・勧め文》として川田殖先生の文章のみしか載せられませんでした。

今号には、世話人と川田先生の《呼びかけ》に応答してくれた二人の友の〝応答文〟を載せます。時間は経過しましたが、このコロナ禍での二人の歩みの真実を読み取ってください。〕 (世話人 石川)

まず始めに、6月から7月にかけて色々と佐久学舎の開催について共に悩み、相談に乗ってくださった方々にお礼申し上げたいと思います。当初は信州在住の助っ人として何かお役に立てないか検討させていただきつつも、迫りくる現実を目の前に無力でありました。今年は不本意ながら集うことができませんでしたが、まさにこの会うことができない状況においてこそ感じられたお一人おひとりの熱い想いに、学舎での出会いが真実たるゆえんを痛く感じさせられ、また静かな希望を感じた次第です。

さて、正直に打ち明けますと、お約束の時間に共に祈り、黙想の時を守ることができませんでした。きちんと予定表にも手帳にも記していただけあって、情けない限りです。

したがって、特に共有するものを書くこともできなさそうなのですが、一方で昨年初めて参加した佐久学舎を経て春先から今夏にかけて経験した様々な出来事を通して、今の私が感じている微かなものを分かち合えれば幸いです。

「信仰から出ていないことは、みな罪です。」これは、昨夏の

学舎で担当発表させていただいたロマ書14章の結びの言葉です。当然この言葉が語られる文脈があり、そこから切り離して受け止めるのは考え物ですが、この一年を通して深く私に問いかけてくる文でありsentence だったように思います。ことあるごとに、自分の言動や心持ちを揺さぶるようにして、その自分を支えている実体、その信を試されている。実際に疑いを抱きながら食べる経験がある身として、重い、まるで魂に突き刺さるような言葉です。

そんな中、引っ越し先の松本でも良き交わりに恵まれ、無鉄

砲でおぼつかない人生の足取りも少しは落ち着きつつあった矢先に、21

世紀版スペイン風邪とでも言える病が流行りだしました。田舎で独り暮らし、幸い職業も食品製造という恒常的な需要がある仕事というのもあり、特に恐れるべきものはありません。それより大都市で籠城生活を送っている親戚や友、特に心の健康が心配でした。ただでさえ窒息感あふれる都会にてストレスフルな環境にさらされている上に、ぎすぎすした空気が張り詰めていく状況の中、肺炎よりも一層深刻な不信と不安の波が拡がっていく。何か少しは爽やかな風を通せないかと。

お世話になっている松本東教会にても物々しい無発声の礼拝からライブ配信に移行し、御言葉に聴き入る恵みを保ちつつも、一段と空虚感が募る日々となりました。

まずは行方不明の旧友を探索しに行きました。両親を亡くし社会から孤立している上に誰とも連絡も取れない彼は、虫の知らせを頼りになんとか居所を探し当てたものの、心を閉ざしていて会えませんでした。なにより無事を祈るばかりです。

その後、自転車で日本一周する兄弟や、海外から避難して日本で足止めされている姉妹、地元の役所で勤めていたが鬱を発症して療養中の友などに向けて、情報の波に飲まれそうな中でもひと時の平安を提供しようと自宅を開放しました。やはり信州の空気はおいしいみたいです。当然、社会的責任に注意を払いつつの限られた営みになりますが、どこか心の余裕と友好的な距離感を取り戻す時間になっているのか、みんな笑顔で帰って(旅立って)いきます。

そして先週、とある親友から悲痛なお便りが来ました。彼女は春先に突発性難聴を患い仕事を辞めて、鳴り止まぬ耳鳴りに苛まれ精神科に通い詰めるほど心身が削られているとのことです。二ヶ月に一度は手紙をくれる仲であるのに、昨今のバタバタで便りを出せていなかったところ急激に体調を崩していたこと、その間こちらから声を掛けてあげられていなかったことにも衝撃を受けました。内容の性質上、詳細は省きますが、以下に抜粋します。

「 ~(略:前半は病状についての描写)~

なぜ私なのでしょうか。なぜこのたくさんの人がいる中、なぜ、私、なのか。分かりません。神様はのりこえられない試練は与えないと言いますが、今回ばかりはもう少し限界です。なので日曜、1日中泣いた後、遺書らしきものを書く自分を見つけました。もうこのまま、このままずっとこのままならば、生きるのが地ごくだと思いました。人生で一番辛く、これ以上に辛いことなどないと思えるぐらいに辛いです。

もし神様がいるのであれば、なぜここまで不平等に、良い人間にもここまでの苦しみを与えるのでしょうか。私には理解ができません。

~(略:後半は人生で後悔したことについて)~

このまま、この苦しみの中、生きていけるのか、正直分かりません。苦しい、辛い、死んだ方が楽な気がします。眠れない、集中できない、音を聞けない、苦しみ。織史、助けて下さい。祈って下さい。私のために。」

この魂からの叫びを受けて、私にできることは多くありません。まず祈りました。本来は佐久学舎を覚えるはずだったその夜に。そして急遽、土日に彼女は松本の自宅に来ることになったのです。むろん来客の準備は整っていたのですが、心の準備は追いつきません。

実は父も同じ病で聴覚を部分的に失い、近親者として似たような立場にいたことがあったため、少しその話をしつつ、のんびりと週末を過ごしました。残念ながらコロナ対策上、一緒に日曜礼拝には行けませんけれども、暑さしのぎに安曇野の清流で川遊びをします。素足で冷たい流れに入り、行き交うオニヤンマに見とれながら、自分自身も抱えていた諸々の不安や心配から洗われ、憩いのひと時となりました。二日間だけですが共に食事をし、涼しい風のおかげで熟睡できた姉妹は、やや軽やかな足取りで帰路につきました。

さて、前置きが非常に長くなってしまいましたが、何が言いたいかというと、聖書のせの字も読んだことのない彼女を前にして、先のsentence が鋭く鳴り響いてきたのです。

果たしてお前は神に信頼して生きているつもりだが、この親友に向かって何を語れるのか。否、口にすることができたのは西瓜とチーズだけだったと。むしろ、これ程も弱った魂の奥底から漏れる呻きにこそ真実が宿る一方、薄っぺらい慰めの言葉を発するお前はなんと欺瞞に満ちているのかと。一体どこにお前の心はあるのだ、と問われる自分。ただただ聴く側に徹するだけの時も、己の芯は消え去っていました。

他の来客にしても然りです。自分は親しい他者との関係に逃げ込んでいるだけであって、本気で神と向き合うことに背を向け、御言葉に耳を閉ざしていないか。たとえ表面的には隣人愛ないし社会的連帯の表われでこそあれ、その根底にあるのは個人的な不安の解消と仲間の心地よさであって、なんら確固たる支えのない貧弱な繋がり、つまり愛ではなく情の関係性ではないか。

あなたの真実はどこにあるのか、と問われて、答えられない私がいます。

なぜこのような内なる声が響いて来るのかは、今のところ分かりません。

先のロマ書14章で言われているところの「肉を食べる良心の自由を持ちつつ、弱い兄弟の良心のために食べない選択をする自由」。この源である信仰というのは自ら獲得するものではなく与えられるもの、いわば授けられる信頼と平安なのでしょう。

結局のところ、自らの内に潜む根源的な不信と不安は測り知れませんが、少なくとも虚偽ではなく誠実さで以って一日を大事に生きるしかありません。迷いつつ、悩みつつ。

とりとめのない文章となりましたが、以上が書き記したいことです。

どうも佐久学舎の祈りと呼応していない、独りよがりな体験談でしかない気がしますが、ここを足掛かりに一言ずつ神様との対話を試みていければと願います。

皆さまの健康が守られ、近々どこかでお会いできることを祈りつつ

Blessings

2020年8月30日