巻頭言

隣人愛といわれるものについて 和田 健彦

地球上に紛争があり、多くの難民や貧困、また悲惨な事件や社会問題などが毎日伝えられている。これらのことを前にして他人事のように見ている自分がいると同時に、こういう現実を前にしてどう祈ったらよいのかに窮することがある。私はそうした中で、たまたま故清水二郎先生の書かれた共助誌巻頭言「ひとりの人イエス・キリスト」(一九七五年一二月号)を読んで、この祈りについて大切なことを教えられた。先生は以下に示す森 明の言葉を引用されて、イエス・キリストについてわかり易く述べておられる。

『一番聖書において注意しなければならぬ点は、すなわち人類の罪がイエスご自身の苦痛となったことである。世の罪を警告・痛撃したのでなく、ご自身からこれを苦しまれた。罪の渦巻きの中にご自身を投じられたのである。これがキリスト教である。』(森 明著作集八一頁)

私はこの箇所を十分に理解する力はないが、このくだりを戦時中主イエスの呻きを示されて満州・蒙古への伝道でキリストに従う道を歩まれ、戦後殉教を知らされた沢崎堅造のことを思いながら、また若い時から接していただいた共助会の先達の信仰と世に隠れた地味な隣人愛に思いを致しながら読んだ。

社会問題、平和問題についていろいろな態度があるが、己の罪と人類の罪を救うために、その渦巻の中に身を投じられているイエス・キリストの贖罪的苦痛の深さを知れば知るほど、神に対する人間の罪の深さを知らされる。そして隣人愛は、神を拝する信仰と、これにより自己中心の在り方をかえていただく中で流れ出るものであると思う。そして、神への信仰なき隣人愛は人間の力による次元の違う話であると思う。(元日本聾話学校 美術教員)