へりくだって、あとに続くもの(2016年2号)〜木村 一雄

「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。」(歴代誌下7・14、新共同訳)

聖書の神は国として個人として罪の悔い改めと「へりくだる」謙虚さを十字架の死に至るまで追い求める神である。

「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」(『荒れ野の四〇年』岩波ブックレット)。この言葉は昨年1月31日死去した「ドイツの良心」と呼ばれたヴァイツゼッカー氏の格調高い演説の一節。1985年、西ドイツ大統領として行った敗戦40周年の議会演説。演説は内外に感銘を与え、人々の歴史観に影響を及ぼした。その時、政治家は言葉によって生きる種族だと改めて知らされた。

昨年、戦後70年。首相の言葉の力が試される年だった。だが自らも責任を曖昧に痛切な反省のお詫びもなかった。過去を心に刻み、未来をしっかり見据えられる歴史に残る演説に必要なのは、勇ましさより格調の高さといえよう。

ヴァイツゼッカー氏の言葉を再び心に刻みたい。日本の戦後70年の歩みを後退させないためにも。氏は「老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」。そしてそれを引き受けるために戦争を知らぬ世代も含めて「老幼互いに助け合おう」と訴えた。自分の世代は関係ないと無関心では次にバトンを託すものには成れまい。

それは元大統領の言った通り「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目」になってしまう。

平和のために、あとに続くものを信じた人たちがいる。ならば、それに応える者でありたい。大統領は40年という歳月の意義も強調している。それは新しい世代が政治の責任を取れるほどに成長してくる時間だ。もちろん若い人に戦争責任はないが、その後の歴史から生じたことへの「戦後責任」はある、と。

また、権力政治を批判しないマスコミや一般人も、「悪魔に魂を売った者」というほかない。「権力を批判しない者は悪魔に魂を売った者だ」とは、ドイツの文学者にして枢密顧問官だったゲーテの言葉。彼は、「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選ぶ。」と。