聖書の所在 ―宗教改革五百周年の年に 七條 真明
十月の下旬、ある大型書店を訪れて、驚いた。店内の目立つ場所に一つのコーナーが出来ており、宗教改革に関する 二十以上もの本が並べられていたのである。本が置かれた台に貼られた紙には、「宗教改革五百周年」と記され、ルター の顔が描かれ、大きな文字で「宗教改革関連本」と記されていた。よく見ると、その脇に小さめの文字で「これだけは 読みたい」とあった。「これだけは読みたい宗教改革関連本」。分厚い神学書の類も含まれている、台の上の本の表紙を 改めて眺めながら、店長あるいはコーナーの責任者がキリスト者なのだろうか等さまざまな思いが湧いてきた。台の横 に貼られているもう一枚の紙には、このように記されていた。「この歴史的な出来事を覚える記念の年に、今を生きる 私たちは何を考えるのか?」。
時を同じくして、神奈川県座間市のアパートの一室から九人の遺体が発見されるという事件が伝えられた。「生きて いたくない」との思いを抱える若者たちがおり、その人々に手をかけて命を奪う若者がいる。今を生きる人間の心を、 深く覆う時代の闇を、誰もが思わずにはおれなくさせられる。この年に手にした宗教改革に関する本の中に見出した、 宗教改革における「福音の再発見」は「原罪の再発見」でもあった、という記述を思い起こした。
大型書店を訪れて数日後、「これだけは読みたい宗教改革関連本」のコーナーのことを思い返し、あることに気づか されて愕然とした。そのコーナーに聖書は置かれていなかったのである。キリスト教書店ではないので当然のことかも しれない。しかし、「これだけは読みたい宗教改革関連本」という二十以上の書籍を見て、その真ん中に置かれるべき 聖書がないことに、なぜ自分が全く気付かず、おかしなことだと少しも思わなかったのかということに愕然としたので ある。
今の日本の教会において、教会に生きる者たちにとって、聖書はどのようなところに位置しているのだろうか。日々 大量の情報が飛び交い、出版物も溢れかえる時代の中で、聖書はどこかに埋もれてしまっていないだろうか。私たちの 歩みにおける聖書の所在をもう一度確認し、聖書をその中心に取り戻すこと、頭では分かっているはずの当然のことが、 真実の意味でそうなっているのかを問い直されているような思いがする。
神を見失った人間の生きる世界に、神の独り子が人となって来てくださったことを聖書は告げる。闇に輝く光をしっ かりと見つめ、聖書の告げる福音を宣べ伝えてゆくために、心新たに聖書の御言葉に向かい続けねばならない。宗教改 革五百周年を記念するこの年がやがて過ぎ去ろうとするこの時、強く思わされるのはそのことである。