人の正義と神の正義(2006年12月号)石川光顕
私はこの春、三七年間の教員生活を終えました。そこに主の備えと導きがあったことを覚えずにはいられません。モーセが彼の生涯の中で、内憂(イスラエルの民との格闘)・外患(エジプトの為政者等との戦い)そして自らの葛藤を通して“主に従った道”を最近CS説教で学びました。私のたった四〇年に満たない教師の歩みにおいても、様々な内憂・外患そして葛藤が想い起こされます。私の内憂としては、生徒からの突きつけ(授業で「分からせてほしい」から始まって「自分をちゃんと見てほしい」)がありました。これらは辛く葛藤も多くありましたが己を鍛えてくれたこととして楽しい思い出です。そして、教員生活の最後の部分では、外患である行政との闘いも大きな問題でした。その闘いの中心は何と言っても「日の丸・君が代」問題です。その極めつけが二〇〇三年十月二十三日に都教委から出された「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」という通達です。「日の丸・君が代」問題はその象徴 に過ぎず、教育の現場から、どんどん「自由」が剥奪されている現実があります。ただ、当時私が勤務していた神津高校は、教員一三名、生徒数八〇名足らずという小さな学校です。そこでは生徒一人一人の名前で教育論議が出来る現実があり、それなりの信頼関係を作って教育活動をしてきました。私は、管理職の苦悩の部分も理解し、話し合いを続ける中、「国歌斉唱」時“立って”来ました。しかし、最終的に教育現場にあってはならない職務命令が一人一人に出される状況にあって、私は「国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟(予防訴訟)」の原告になる決断をしました。原告団は総勢四〇一名弁護団の人数は五〇名を超えるこの裁判は“戦後教育裁判の総決算”といわれています。
主たる争点は、
・職務命令による起立斉唱やピアノ伴奏は、思想・良心の自由、並びに信教の自由を定めた憲法十九条、二十条に違反するか否か、
・この職務命令は教育基本法十条一項の「不当な支配」に該当するか否か、
というものです。
今年九月二十一日東京地裁で判決が出されました。新聞でもその一面トップで報道されましたように、その判決は原告側の主張が全面的に取り入れられた完全勝訴でありました。しかし涙を流して喜んだこの判決も、良く考えてみれば極く当たり前のことを言ったに過ぎないのです。当たり前のことを涙する程、現在の教育現場が異常な事態になっているのだと思います。この裁判は高裁へ進みます。そして最高裁へと続くことが予想されます。
今改めてモーセの歩みを思い起こします。出エジプトの歴史はモーセの人間的な正義(怒り)を排除し神の正義を全うすることを中心テーマにしています。私はこの裁判闘争を通して、歴史を支配する神のもとで、歴史に生きる意味をまた深く問いたいと思っています。「人の怒りは、神の義を実現するものではない」(ヤコブ一・二〇)という聖句を心に刻みつつ!