本当のことは「一人」から始まる(2006年10・11月号) 安積力也 

 「生きること」と「仕事すること」が一つとなる道を求めて、教師になった。日本海に面した小さなキリスト教学校。充実した日々ではあったが、のめり込めば込むほど、そこは、閉塞し自己完結したタコ壷の世界のように思えた。その間、世の中は激変していった。ささやかな「自分の仕事」と「世の中の流れ」 に何の関係も見出せなかった。何とも空疎な無力感。「歴史」を教えながら「歴史を生きて」いない自分を覚えて、苦しかった。

 あれから三十余年、特異性の高い「使命」を掲げたキリスト教学校を三つ生きて、今に至った。破れの多い現実ばかりを歩むしかなかったが、何故か、「一人の生徒のために集中する精神」だけは、私の内に枯渇せず、燃え続けている。そこにこそ、教育の営みを「教育」たらしめる本源的消息が息づいていたから だ。そして、「一人の生徒」の変容が、他の生徒を変え、教師を変え、学校を変えていく消息が、手ごたえをもって見えるようになったからだ。教育とは、遠 い将来に結果する「深い原因」を、一人一人に、日々営々と提供していく業である。「一人」に関わりゆく教育の営みが、「世の中の流れ(歴史)」の形成に 対して持つ「固有の役割」を、今の私は、多分、もう疑っていない。

 今、『教育基本法』の改変が、まるで既定の事実であるかの如くに進行している。アジア・太平洋戦争の悲惨な代価を払ってこの国の先達が知った「一人」というかけがえのない「個の尊厳」が、再び「国家の尊厳」に取って代わられようとしている。黙認ないしは容認する大半の「国民」。抗いがたい潮流を見るような絶望的な思いが、払っても払っても、自分を襲う昨今。

 この夏の修養会は、例年にも増して少ない人数だった。だが、集った者たちの間に宿っていたあの不思議な「平安」は何だったのか。「神の前の個」を生きるしかなくさせられた者たちの交わり。「一人、神の前に立つしかない場」としての共助の交わり。そこには、「御言葉の約束」に自らを委ねきった者同士の間に通い合う、深い「平安」があった。

 「恐れるな、小さき群れよ」。天上の先達たちの声が響く。神は「数」を問題にされない。大状況のみに目を奪われてはならないのだ。本当のこと― 「歴史の主」の御業―は、今も、神の前の「一人」から 始まる。楔打たれるように、そう思った。