聖書研究

雅歌の解釈をめぐって(第三回) 小友聡

雅歌の解釈をめぐって考察を続けます。前回は、20世紀の神学者カール・バルトとゴルヴィツァーの雅歌解釈を紹介しました。雅歌は聖書学者だけが研究対象にするのではなく、組織神学者もまたこの書に挑むのです。雅歌はさまざまな神学的思考によって読み解ける文書です。私たちが雅歌の聖書学的注解書を読んで、これこそが雅歌の本来的意味だと安易に結論を出すことはできません。雅歌は現代においても強烈な思想的インパクトを有する書です。そこで、今回は、哲学的な雅歌解釈を紹介します。哲学的と言っても、ユダヤ哲学の雅歌解釈です。私たちにはあまりなじみがないので、関心が湧かず、敬遠されそうですが、雅歌解釈の本質に迫るものがあります。雅歌という書を「啓示」と見て、その思想世界を極めて「神学的に」説明するのです。

1 ローゼンツヴァイクの雅歌解釈

まず紹介したいのは、20世紀初頭のユダヤ人哲学者フランツ・ローゼンツヴァイクの雅歌解釈です。ローゼンツヴァイクは、マルチン・ブーバーと共にヘブライ語聖書の新しいドイツ語訳を完成させた人物としても知られています。彼の畢生の大著『救済の星』(1921年)の中にこういう記述があります。

『雅歌』は愛の歌であり、そしてまさにその点で直接に「神秘的な」詩でもあることが認識されていた。……『雅歌』は「まぎれもない」愛の歌であり、つまりは「世俗的な」愛の歌であるにもかかわらずというのではなく、まさしくそうであればこそ、人間にたいする神のまぎれもない「霊的」な愛の歌だったのである。人間は、神が愛するがゆえに愛するのであり、神が愛するとおりに愛するのである。人間の人間的な魂は、神によって目覚めさせられる魂なのである。(村岡晋一/細見和之/小須田健訳、みすず書房、2009年、304頁)

ローゼンツヴァイクは、雅歌が愛の歌であると同時に、霊的な詩であると見ます。ユダヤ教の伝統的な解釈の線上で雅歌の本質を説明します。前回のバルトは雅歌を愛の歌であると受け止めると同時に終末論的に解釈し、またゴルヴィツァーは実践的に解釈しました。それに対して、ローゼンツヴァイクは霊的に解釈するのです。しかし、ローゼンツヴァイクの「霊的」は中世神秘主義のような思考ではなく、あくまで哲学的/神学的に思考されたものです。「人間に対する神の愛」という神の主導性に応答する「人間の愛」を読み取ります。ローゼンツヴァイクはさらに雅歌を啓示の書と見て、こう述べます。われわれは『雅歌』こそが啓示の核をなす巻であることを知ったのだが、この巻においてはこの愛のことばは、愛を語るのではなく、たんに愛について述べている唯一の箇所であり、唯一の客観的な瞬間であり、唯一の根拠づけである。愛のことばにおいて、創造は眼に見えるかたちで啓示のなかに入りこみ、眼に見えるかたちで啓示によって高められる。死は創造の最後のもの、創造を完成するものであり、愛は死のように強いのだ。これが愛について語られ、言い表わされ、物語られうる唯一のことである。(308頁)

これは実に深遠な言葉です。ローゼンツヴァイクによれば、雅歌は神の創造について語る啓示の書であり、死は創造の完成です。そこで、雅歌8章6節の有名な言葉「愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい」が新たに解釈されるのです。この「愛は死のように強く」は解釈者泣かせの難解な個所です。愛は死をもたらす破滅的な力を含むというように解釈されることもあります。けれども、ローゼンツヴァイクはそうではなくて、神による創造の完成である「死」のように愛は強いのだと説明します。そのような「愛」の足下に創造世界全体がひれ伏すのです。なるほどと思わされます。私たちは雅歌を単なる人間の愛の歌だと読んでしまいますが、ローゼンツヴァイクに言わせれば、雅歌は神の愛の唯一性を啓示する書なのです。

このように雅歌を解釈すると、雅歌は新約聖書のヨハネ福音書3章16節と同じ意味を含んでいるのではないか、と思わされます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは、神が独り子を犠牲にするほどに私たちを愛されたという、神の絶対的な救済愛を証言する言葉ですが、意味的にはローゼンツヴァイクの雅歌解釈に通じます。もちろん、雅歌にキリスト論はありませんが、神の愛の唯一性の啓示という意味において雅歌は新約聖書と親和性を有するのです。これは思いがけない発見です。雅歌を霊的に解釈する解釈としてローゼンツヴァイクの雅歌論は非常に印象深いものがあります。

このように雅歌の思想世界を理解すると、神の愛と人間の愛との関係を説明することができます。つまり、律法の中心である十戒の解釈です。十戒は神の啓示です。この十戒の前半は「神への愛」の掟であり、後半は「人間への愛」の掟です。両者が律法で最も重要な掟なのですが、この十戒が神の啓示であるということについて、実は、十戒の序言が唯一の根拠づけになっています。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」(出エジプト記20章2節)これは、ヤハヴェがイスラエルを救い出したという「神の愛」の宣言です。この神の愛の唯一性が十戒においてまず啓示され、その絶対的な神の愛に応答するものとして、人間の愛が十戒の掟として絶対的に要求されます。このような意味において、雅歌は愛の本質を教えているということが雅歌解釈の射程に入って来ると言わざるを得ません。

2 永井晋「雅歌の形而上学/生命の現象学」をめぐって

ユダヤ哲学の雅歌解釈をもう少し掘り下げてみます。そこで、永井 晋の雅歌解釈を紹介します。これは「雅歌の形而上学/生命の現象学」(『現代思想』3月臨時増刊号、2012年)という論文で、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスのユダヤ的思考に触発されたものです。

永井は主としてレヴィナスの『全体性と無限』と対論するのですが、レヴィナスの現象学を「生命論」として捉え、そこから倫理学へと展開します。その際に雅歌をエロス的生命を扱うテクストとして用い、哲学的な雅歌解釈を試みるのです。永井の雅歌論は、相反する二つの方向4 4 4 4 4 を示します。以下、それを紹介します。

まず、雅歌冒頭の句についてカバラー的ミドラーシュ解釈を参照しつつ、唯一の神の生命がエロスを通して生命の気息として流出し、多様化して律法へと形態化する下降の過程を見ます(302頁)。ずいぶん難解な説明で、哲学的な内容のように思えますが、要するに、雅歌において、まず最初に神によるエロス的愛が人間に示されるということです。わかりやすく説明しましょう。

雅歌の冒頭にはこう書かれています。「あの方が私に口づけをしてくださるように。あなたの愛はぶどう酒よりも心地よく、あなたの香油はかぐわしい。」(1章1―2節)この句は官能的ですが、これについて、神は初めに人間に愛を示したと解釈されるのです。これはヴィルナのエリヤ(18世紀)によるミドラシュ的解釈を援用したもので、ヘブライ語の「口づけ」が複数形であることがポイントです。この「口づけ」の二重性が、実は、出エジプト記の十戒の二つの掟と関係するというのです。

第一戒:「私はあなたがたの唯一の神」(唯一神の宣言)

第二戒:「私以外の神を崇めるな」(偶像崇拝=一者の多様化の禁止)

第一戒の神の唯一性は、この言葉が神の口から発せられるや否や早くも二重化し、同時にこれら二つの戒めをただ一つの言葉にします。しかも、これは倫理的戒めではなくて、倫理以前の形而上学的事態だと説明されます(304頁)。とても哲学的ですが、語られていることはだいたいわかるのではないでしょうか。雅歌は、まず神が愛を示したことから始まります。それは神による崇高なエロス的愛の啓示であって、人間の創造を意味します。しかし、それは同時に、神による戒めの授与と関係するのです。ここが面白いところです。創世記の「創造」のみならず出エジプト記の「掟の授与」が雅歌冒頭の句において啓示されている、という解釈です。キリスト教の神学者は雅歌をもっぱら創造論的に解釈する傾向がありますが、ユダヤ哲学は、それのみならず倫理学的に解釈する傾向が強いのです。もちろん、雅歌の冒頭の句は「倫理以前の形而上学」と言われますが、創造論と倫理学を分離しないところにユダヤ哲学の特徴があります。

次に、永井は逆の方向で雅歌を解釈します。相反する二つ目の方向とはこのことです。世界内に追放された自己が、神に吹き込まれた生命の気息を通して、神の痕跡である律法の倫理的経験を経て、さらにエロス的経験において唯一の神の生命そのものへと上昇してゆく過程を見てゆきます(302頁)。これもずいぶん難解ですが、わかりやすく説明しましょう。まず注目されるのは雅歌5章です。

私は眠っていましたが、こころは覚めていました。
ほら、聞いてごらん。愛する人が戸を叩いている。
「私の妹、恋人よ、開けてください。
私の鳩、汚れなき人よ。
私の頭は露で
髪は夜露で濡れてしまった。」(5章2節)

これは乙女が語る部分ですが、世界の内に追放されながらも不在の生命/神に覚醒し、それを追い求める形而上学的欲望を詩的に表現したものと解釈できます。「眠っている」とは、その世界の中にいながらもこの乙女が一なる生命/神へのエロス的な思慕を失わないことを意味します(306頁)。この句に続いて、乙女と恋人とのより具体的なエロス的関係が示唆されます。この後、すぐに立ち去ってゆく恋人への憧れが次のように歌われます。

私は衣を脱いでしまいました。
どうして、また着られましょうか。
足を洗ってしまいました。
どうして、また汚せましょうか。
愛する人は隙間から手を差し伸べました。
私の胸はその方のゆえに高鳴ります。
私は愛する人に戸を開けようと起き上がりました。
私の両手から没薬が滴り
没薬が私の指から
かんぬきの取っ手の上へこぼれ落ちます。
私は愛する人に扉を開きました。
けれども、愛する人は背を向けて去ってしまった後でした。

あの方の言葉で、私は気が遠くなりました。
私は捜し求めましたが、
あの方は見つかりません。
私は呼び求めましたが
あの方は答えてはくれません。(5章3〜6節)

少し長い雅歌テクストの引用になりましたが、ここもエロス的関係が表現され実に官能的です。乙女と恋人は恍惚の中で合一するや否や、恋人はすぐさま立ち去ってしまいます。このエロス的経験は互いにとって唯一のものである恋人同士の分離と合一という、二者と一者の形而上学的経験の構造を示すと解釈されるのです。恋人とのエロス的関係が「官能」「恍惚」として経験されるためには、私は他者=恋人と一体化し、融合しつつも、あくまで二に分離され、自己であり続けなければなりません(308頁)。このような倫理的(人間関係的)な論理は、前に説明した「口づけ」と位相を異にせず、むしろ逆の方向で、人間が唯一の神を憧れると同時に、他者をそのようなものとして慕い続けるということだと永井は見るのです。

ずいぶん難しい説明になりましたが、要するに、まず神によるエロス的愛が人間に示され、それへの応答として、人間は神に、また隣人にエロス的愛を示すことが掟として要求されるということです。

3 ユダヤ哲学的な雅歌解釈

雅歌がこのように解釈されるということはちょっと驚きです。ローゼンツヴァイクも永井も思考は哲学的ですが、内容的には非常に崇高な神学的論理による雅歌解釈なのです。雅歌のテクストを神と人間という垂直的関係と捉え、神から与えられた愛に応えようと人間が神を慕い求めるのです。その神を愛する行為こそ、他者を愛する水平的・倫理的行為です。しかし、エロス的経験においては、どれほど他者を愛しても一体とはなれません。つまり、他者を自己のものにすることはできないということです。その限界性がまた雅歌のテーマになっていると言えます。それは、神と人間は決して融合しないという旧約宗教の本質に関わります。今回扱った二つの文献は雅歌の思想世界をユダヤ哲学的に読み取ると同時に、雅歌から倫理的なメッセージを引き出すという見事な解釈だと思います。

愛の歌として書かれている雅歌に崇高な倫理性を見るという発想には目が開かれます。つまり、雅歌は創造論として捉えられるというより、出エジプト記が示す律法への従順という倫理学として捉えられ得るということです。このような発想で雅歌を読み解くユダヤ哲学的解釈は実に魅力的です。しかし、雅歌は果たしてもともとそのような意図で書き記されたのでしょうか。筆者は雅歌の再解釈としては納得できますが、それ以上の評価はできません。

(東京神学大学教授・日本基督教団 中村町教会牧師)