聖書研究

キリスト者の交わりの中で、イエス様の焼き印を受けて生きる。石田真一郎

【聖書研究 ガラテヤの信徒への手紙 第6 (最終) 回】

「信仰に基づいた助け合い」(6章1~10節)

1節「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、〝霊〟(聖霊)に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身

も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」

直前の5章22~23節に、「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあり、「霊(聖霊)の導きに従ってまた前進しましょう」と書かれていました。このように霊(聖霊)に従って生きているクリスチャンに対して、「何かの明らかな罪に陥った人(おそらくクリスチャン)を、柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と、パウロが求めます。クリスチャンも悪魔の誘惑に負けて、モーセの十戒を破る明白な罪を犯す生き方に逆戻りする恐れはあります。そのような信仰の兄弟を放置してはならないと、パウロは求めます。聖霊に導かれた柔和な心(イエス・キリストの心)で、その人を悔い改めに導き、必ずその罪から離れさせ、正しい道に立ち帰らせなければならないのです。そうでないと最悪の場合、その兄弟が天国に入り損ねる恐れがあります。それを何としても回避する必要があります。しかし私たちも、「赦された罪人(つみびと)」に過ぎないので、自分が相手より偉いと思ってはなりません。あくまでも柔和な心で、しかし妥協なく諭します。

イエス様も、こう語られます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(マタイ18: 15)。相手が聞き入れて、悔い改めれば解決です。しかし聞き入れない場合は、第二段階に進みます。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」信頼のおけるクリスチャン一人か二人を同伴して穏やかに、しかし断固として、悔い改めてその罪をやめるように求めます。「あなたが行っていることは、聖書に照らして明らかに

罪であり、これを続けると、神様の裁きを受ける恐れがある。必ずこの罪をやめなさい。」一人または二人を同伴する根拠は、申命記19章15節です。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばなら

ない。」

これで聞き入れられない場合は、第三段階に進みます。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」今の教会であれば、役員会(長老会)で祈りをもって取り扱います。牧師と役員が、心をこめてその罪をやめるように強く諭します。相手が受け入れて悔い改めれば、解決です。しかし「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」ここでは、異邦人と徴税人は、教会外の人の意味です。教会から一度出しなさいというのです。その人を愛し、その人が悔い改めて救われるため、涙をのんで行う厳しい処置です。今日の教会であれば、その具体的な罪を悔い改めるまで、(洗礼を受けたクリスチャンであっても)聖餐式に与かることを一旦停止すること等が考えられます。愛から行うのです。

「他者の罪を見過ごしにするなまぬるさにまさって冷酷なことはほかにない」(ボンへッファー)。「罪人(つみびと)を迷い(罪)の道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」(ヤコブ5:20)。

パウロは、コリントの教会でこれを行ったことがあります。教会員が父親の妻(自分の義理の母親)と同居し、性的関係をもっていたのです。「悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。(……)わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしたちの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した(=一旦、教会から出した)のです。それは主の日(神の国の完成の日)に彼の霊が救われるためです」(Ⅰコリント5:2~5)。相手が悔い改めて、最終的に天国に入れるようにするために、愛をもって行う処置です。私たちは、「神の慈愛と峻厳とを見よ」(口語訳・ローマ11:22)の御言葉を、心に銘記する必要があります。神様は私たち罪人(つみびと)を愛してくださいますが、同時に聖なる方で、私たちの罪を明確に憎んでおられます。

2節「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」イエス・キリストがまず、私たちの全ての罪という最大の重荷を、担って下さいました。イエス様の十字架に支えられて、キリスト者同士も、互いの欠点等の重荷を担い合います。ある教会員の夫君のご葬儀

の時に、その方は葬儀社が用意した膝に乗るくらいのサイズの十字架をもって、斎場に行きました。そしておっしゃるには、「あの十字架が重かった。あれは私たちの罪の重さだと思う。」私は本当にそうだと思いました。イエス様が担がれた十字架は、どんなに重かったか。物理的な重さだけでなく、私たち全人間の罪の重さが、ずっしりどころではない重さだったはずです。

キリスト者同士でも、互いに考えや性格が違います。互いに譲れない意見もあります。しかしイエス様の十字架の愛に支えられて、できる限りお互いという重荷を担い合います。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(Ⅰコリント8:11)! これが、キリストの体なる教会の交わりです。それは「ひとりが、他の重荷を経験しなければならない、十字架の交わりである。もし彼がそれを担うことを経験しないなら、それはキリスト者の交わりではあるまい」(ボンへッファー著 森野善右衛門訳 『共に生きる生活』新教出版社、1991年、100頁)。「誰ひとり自分の権利を求めるな。もしも強い者が倒れるなら、弱い者は、他人の不幸を喜ぶことのないように心をいましめなさい。もしも弱い者が倒れるなら、強い者は、友情をもって再び彼を助けなさい」(同書、100~101ページ)。

7節「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」聖なる神様を軽んじて、甘く見てはいけないのです。そうすると必ず痛い目に遭います。ダビデ王は、忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバを奪って、姦通の罪を犯しました。バト・シェバが身ごもり、ダビデは慌てます。ダビデはウリヤを激しい戦いの最前線に出させ、ウリヤを残して退却し、ウリヤを戦死させる指示を出しました。ダビデの思惑通り、ウリヤは戦死し、ダビデはバト・シェバを妻にし、彼女は男の子を産みました。しかし事はそれで済みません。ダビデのこの卑劣な行為は、神様の御心に適わなかったのです。神様は、預言者ナタンを送ってダビデを叱責させます。ナタンは神の言葉を述べます。「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。……それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、へト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。……あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」(サムエル記下12:9~14)。そうなりました。神様を侮ったからです。ダビデは自分の蒔いた種の結果を、刈り取る結果になりました。しかしダビデは、罪を真剣に悔い改めます(詩編51編)。そこは彼の美点です。

8~9節「自分の肉(罪)に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊(愛)に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。……飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」ぜひ聖霊に助けられ、ひたすら善に励みましょう!

「結びの言葉」(11~18節)

11節「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」パウロは眼が悪かったと言われ、ローマの信徒への手紙は口述筆記で書いています。そのパウロが「こんなに大きな字で、自分の手で」この手紙を書いていることは、それだけ全身全霊で伝えようと燃えているのです。

12~13節「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」割礼は、人間の真の救いのために完全に無力です。割礼は、ユダヤ人の誇り(プライド)であり、人間の誇りは、人間の真の救いのために完全に無力です。誇りには多くの場合、高慢の罪が含まれているからです(ごく一部に、よい誇りもあると思いますが)。信仰義認をキリスト義認(キリストの功績によって義とされる)と言い換えることができますが、、それ十字架義認(十字架によって義とされる)です。

パウロは伝道の中で、ガラテヤの信徒への手紙での主張と一見矛盾する行動をとったことがあります。「パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子(クリスチャン)がいた。彼はリストラとイコニオンの兄弟(クリスチャン)の間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである」(使徒16:1~3)。テモテがユダヤ人とギリシア人(異邦人)の血を引いているので、割礼を受けていないと、その地域のユダヤ人たちがテモテを受け入れないので、伝道に支障をきたさないためにあえて割礼を授けたのでしょう。パウロは伝道のために、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです」(Ⅰコリント9:20)という姿勢をとりました。もちろんこの場合も、割礼に真の救いをもたらす力は全くなく、イエス様の十字架にのみ、その力がある大前提が明確です。割礼は「切り傷に過ぎない」(フィリピ3:2)無意味なものです。パウロがガラテヤの信徒への手紙で、これほど強硬に割礼に反対したのは、イエス様の十字架にのみ私たちの罪を完全に赦す力があるとの絶対真理を、わすかでも曖昧にすることは、決して決して許されないからです。パウロはこの一点に命をかけましたし、私たちもこの一点に命をかけます。

14節前半「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」パウロはかつて、自分ほど清く正しく生きている者はいないとの自信(過信)に満ちていました。しかし復活のイエス様に出会って、自分が高慢の大きな罪を犯していることに気づきました。深く悔い改めて洗礼を受け、パウロのためにも死なれた「イエス様の十字架のみが、自分の唯一の誇り」との信仰に導かれました。私たちも同じです。パウロは書きました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人(異邦人)にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1:16)。福音を十字架と言い換えることができます。「わたしは十字架を恥としない。十字架は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と。十字架は弱さのシンボルと言えるので、以前のパウロは十字架を最悪の恥と忌み嫌っていたでしょう。しかしパウロの価値観は大逆転し、イエス様の十字架のみがパウロの誇りとなりました。

14節後半「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」イエス様の十字架の死のお陰で、パウロは世(悪の世)の支配から完全に解放され、死の支配からも解放され、父なる神様の所有に移されました。

15節「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです。」聖霊が、わたしをイエス様に似た人格の者へと新しく創造して下さいます。

 

17節「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」

「あなたはわたし(イエス様)のもの」という焼き印をパウロは受けたのです。見えない焼き印ですが、ジューツと音がする焼き印(十字架と復活のイエス様という焼き印)をパウロは強烈に押されました。私たちも同じであることを、決して忘れてはいけません。私たちも、洗礼を受けたときに、「イエス様の焼き印」で強烈に焼かれたのです。この焼き印はもはや消去不可能です。最高に光栄なことです。「わたしたちは洗礼〔バプテスマ〕によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。イエス様の焼き印を押された私たちは、イエス様に似た人格の者に新しく創造され、イエス様の新しい愛の命に生きます。クリスチャンの死は、洗礼の完成です。そのとき私たちの罪は完全に死に、私たちは全く清くなって天国に誕生します(しかし死に急ぐことは厳禁です)。

私は洗礼を受けて間もなくの1989年3月に島根県の津和野に行きました。明治初年のキリシタンの流刑地です。まだキリスト教は禁教で、長崎のキリシタンたちが津和野で迫害を受けました。過酷な拷問で37名が殉教し、信仰を捨てずに生き残った人も二人います。乙女峠という峠があり、「十字架の道行き」がありました。50メートルおきくらいにイエス様の受難のレリーフがある碑が建てられていて、文言が書かれています。①キリスト、死刑の宣告を受ける、②キリスト、十字架を担う、

③初めて倒れる、④母に会う、⑧婦人たちに声をかける、⑪十字架に釘づけられる、⑫息を引き取る、等です。そこを祈りながら歩いて、信仰を深めるのです。この「十字架の道行き」は鎌倉の修道院にもありました。もちろん十字架の先には、栄光の復活があります。

日本でかつてこんな嘲りの言葉があったそうです。「耶蘇(ヤソ、クリスチャン)の弱虫は、ハリツケ拝んで涙を流す。」私たちキリスト者は、それでよいのです。私は今年の受難節の3月に、コロナに感染しました。療養して治すことばかり考えていましたが、ふと受難節にコロナになったことにも、意味があるかもしれないと思いました。幸い癒されましたが、イエス様の十字架の受難を少しは深く感じなさい、という神意だったかもしれないのです。

私たちは、イエス様の十字架の死(と復活)と引き換えに、永遠の命をいただきました。それは安価な恵みではなく、高価な恵み(ボンヘッファー)、最も高価な恵みです。この恵みに最大限の感謝を献げ、全力で応答する生き方に進みましょう!

(日本基督教団東久留米教会牧師)