随想

父のこと 息子・佐伯 琢治

私は信徒ではありませんが、生前、父ならびに母(昭和63年に他界)が長く共助会の皆様に御助力と御厚誼を頂きましたこと、あらためて、ここに故人に代り、御礼申し上げます。

今回、父の著作物の巻末や講演、寄稿記事等を基に略歴を纏めましたが、生前、生い立ち(特に広島以前)についてそれほど多くを語って呉れなかった父について、やはり私にとっては未知のことが大き過ぎる気がします。ですが仮に、質問に質問を重ねて、より沢山の言葉として答を集めていたとしても、それが父という一人の人物をより知ることになったかどうか、それも、もはや私には判りません。

恐らく、社長時代位から、パズルへの関心が高まり、蒐集も始め、また自身でも製作する等、パズル作家の肩書もいつしか伴うようになったようです。人生はゲームか? パズルか? という頭の痛くなるような問を掲げられ、私自身は辟易していました。父の持論は、「人生はパズルだ」ということであったようです。妹は、母の他界後、しばらく父と同居していたこともあり、私よりもっと、愛情深く父の機微を見守っていたと思いますし、又、父を取りまく様々の社会関係、人々との交流(の時間)も在ったと思います。ですから、本当はこの寄稿は妹が遥かに相応しかったかもしれません。姉がおりましたが、平成7年に病で夭折(ようせつ)して居ます(精神科の医師でした)。

父の逝去の通知に応えて、沢山の方から御見舞い、お悔みのお手紙等を頂きましたが、それらのお葉書や御書状を通して、私が今まで垣間見る事さえ叶わなかった、研究者、会社人としての足跡、業績を初めて伝えられる思いが致しました。一人の故人となってしまった父について私が知るのは、多面的な或る人物の一角に過ぎません。旭川で暮らすようになってからも、多くの豊かな交流と光の場が生まれたようです。

〔略歴〕

1926年4月、大分市に生。父親(理科教師)の転勤に伴い、広島市で、11歳から18歳までの6年半を過ごす。

1945年4月、京都大学工学部に入学。(8月、広島・長崎に原爆投下、終戦。広島は京大入学直前まで暮らした地であった。)

1947年、受洗。

1948年、キリスト教共助会入会。

1949年、京大工学部機械工学科を卒業。東洋鋼鈑(株)に入社。東洋製罐・東洋鋼鈑総合研究所の主任研究員を経て、東洋ガラス(株)に勤務。
1966年、東洋ガラス(株)取締役技術部長に就任。

1971年、名古屋大学より工学博士の学位を授与される。

1983年、東洋ガラス(株)代表取締役社長に就任。

1993年、同職を退任。退任後は、社会福祉法人「泉会」理事長、学校法人「日本聾話学校」理事長を歴任。

2013年、東京の住居を引き払い、旭川市に移住。

2020年、7月4日逝去。

【著作】

1990年:『三極発想法』(日新報道)

1992年:『小さな成功が大きな成功を生む』(国司義彦氏と共著。産能大学出版部)
2014年:『発想の原点・三にこだわる』(株・あいわプリント)