尾崎風伍先生の思い出 上原 惠

この夏、尾崎亜紀さんが風伍先生のご容態をお知らせくださった頃、私は母を訪問してくださった中渋谷教会員の松坂様ご夫妻から、昔の写真を見せて頂く時を得ました。その中に、一昔前の中渋谷教会前で撮った集合写真がありました。

1972年中渋谷教会建設55周年記念礼拝後の記念写真です。そこには尾崎風伍・マリ子ご夫妻、前列のこどもたちの中に令さんと亜紀さん、そして私の祖母と母がおりました。1957年に京都の西田町教会から転入された尾崎ご夫妻のことを私は祖母からよく聞いていました。祖母は令さんと亜紀さんが家族になられるときいて心待ちにし、幼児用の布団を作りました。実際に会えた頃には小さすぎて使えなかったそうですが、尾崎ご夫妻はその気持ちを大切にしてくださり、お子様たちに周りの方々のお祈りや思いを伝えてこられたのでしょう。令さんがこの会堂で結婚式を挙げられたとき、祖母に代わって列席した母と私にその思い出を話してくださいました。いま再び中渋谷教会で、尾崎先生との最後の礼拝をご家族の皆様と一緒にささげることができたことに、胸が熱くなる思いです。

中渋谷教会70周年の『目で見る中渋谷教会の歴史』には、先ほどお話しされました小淵康而先生が1976年に海老名集会で最後の説教をされた時の写真があり、そこに私の妹家族が映っています。当時尾崎家でもたれていた子ども会につどっていた甥にとっては「大好きな飛行機のおじちゃん」が尾崎先生でした。牧師になられる以前から、明治生まれの祖母、2歳位の幼子の心もしっかりと受け止めてくださる尾崎ご夫妻のことを私は、家族から聞いておりました。

私が初めて尾崎風伍牧師・マリ子牧師(以後先生と呼ばせて頂きます)とお会いしたのは、1996年久我山教会の礼拝でした。私は阿佐谷東教会で受洗し、結婚後夫の転勤に伴い引っ越しを重ね、20年ぶりに東京に戻りました。その間に、私が育てられた阿佐谷東教会から出た群れと尾崎風伍先生が出会って久我山の地に教会が建てられた歴史はここでは語りつくせず、1999年までの歴史を綴った『久我山教会十年史』に克明に記されております。

久我山教会の礼拝に出席したときには尾崎風伍先生、マリ子先生の丁寧な挨拶を受け、来会するどなたもが感じられた、家庭に招かれたような温かさを覚えました。マリ子先生の説教は簡潔で、み言葉の映像、気持ちの流れが心にうかんでくるような、それでいて凛りんとした響きがありました。風伍先生の説教は骨太の福音信仰の上に立ち、折り目正しく筋道立ったものでした。新しい方や前週に欠席した方がいると、聖書の成り立ちや歴史説明が入ったり、前回の復習が入ったり、失礼を承知で申し上げると長かった、が印象に残ります。特に葬儀の時は、ご列席のクリスチャンではない多くの方々を心に留められて、聖書の背景の説明がはいり、時計を眺めはらはらしたこともございました。後に文書でみますと、丁寧に構築されたまっすぐに福音を伝えるみ言葉であることがわかります。

久我山教会の礼拝は創立当初から子どもと一緒にささげられており、説教の前に子どものためのことばとお祈りがあります。風伍先生は小さな子どもと同じ目線で座られ、「一緒に礼拝を捧げられることはとても嬉しいことです」と静かに語られます。3歳位の子どもにわかりやすいというお話ではありませんが、子どもたちはまっすぐに風伍先生を見つめます。一人の人間としてとらえられ、大切にされていることを全身で感じるのだと思います。当時まだ小学生の少年が風伍先生と一対一で受洗の準備を始めたとき、彼が負担に思わないかと浅はかにも心配したのですが、彼は自分によせられた信頼に応えて受けて立つという、風伍先生との間に人格の交わりが育てられていたことを知らされました。子どもだけでなく若者にも年配者にも、病を負う者にも、心に疲れを覚える者にもその人と目線を合わせて対応され、教会では誰もが大切に迎えられていることを感じさせられました。

時を経て私に長老の任が与えられた時、その役目について尾崎先生に教えを乞こ いに参りました。礼拝の祈りのほかの具体的なことについては、これまでの長老、教会員の自発的な働きへの感謝を伝えられました。長老会で自分の思いにとらわれて判断できない時には「結論は先に延ばしましょう」。事を決するのに時間がない時はご自身の意見を引かれたこともありました。牧師館候補にするには古く、耐震性の不安もあり、価格が高い物件に遭遇した時には「長老は腹をくくってください」と、その場での決断を促されました。自分の考えの狭さや弱さを嘆くと「長老会らしい話し合いが出来たと思います」と言われます。久我山教会創立からの核心は「み言葉に堅く立ち、共に祈る教会」です。そして改革長老会の伝統を受け継ぐ教会の特色として「神の言葉によって絶えず改革されていく教会」と教会規則前文に記されています。これは事があるたびに長老会の中で、教会の働きの中で確認することになりました。聖書にありますように私たちが事を選ぶのでなく、神様がお選びになる。教会が立ち向かう事柄は休むことなく押し寄せてきました* 。それこそが教会がこの世にあって生かされている証しであり、人の計画や時間や経済も度外視して神さまのみ業は進んでいく。そのことを風伍先生は敏感にとらえ、先立って祈り示されます。具体的な判断にあたっては信仰による御友人、専門の賜物をお持ちの方に謙虚に知恵を求められます。そのことによってお祈りの輪が広がっていく過程を教会の歴史の中で知らされました。ことにあたって躊躇したり、人の思いで迷うと「悪しき霊に囚われないように」ととても鋭い言葉をおっしゃいます。けれどそれは考え方が違うとか人を責めるのでは決してなく、つねに神さまのみを信頼し、信じて歩む、ということを示されていたのだ、といま思います。

*22003年から2006年は久我山教会の激動の時代であった。2003年宗教法人「日本基督教団久我山教会」の認証を受け、2004年から新会堂建設の準備が始まり、2005年には牧師館となる物件の購入。2006年から旧会堂取り壊し、新会堂建設工事が始まった。またその年には隠退を決められた尾崎風伍牧師・マリ子牧師の後任の教師招聘を委員会、細則作りから始めて年度末には次期教師の招聘が承認された。2007年には新会堂献堂式、教師就任式が行われた。

中渋谷教会、基督教共助会始め多くの方々と教会の篤いお祈りとご支援をいただいて建てられた久我山教会は、今年創立30年を迎えました。いま使徒言行録のように教会がこの世に神の業を表したことを綴っていく、という思いのもとに『十年史』のその後を綴る『久我山教会二五年史』発行に向かっております。尾崎先生にはどうしてもその後の思いを書いていただきたく、亜紀さんを通して原稿の依頼をお願いし、既に透析治療の日々でいらした先生のご希望もあって、安倍愛樹牧師とインタビューに赴きました。2016年9月のことです。その時の安倍牧師による質問と尾崎先生のお言葉を伝えさせていただきます。

♠久我山教会が宗教法人化するにあたり、月報などを通して丁寧に教会員に伝えられていたときの思いをお聞きかせください。

♣「平たく言えば世にあって公明正大であるという程度のこと。そのための形として宗教法人となること。聖書にもそのように、公明正大に世に立つことの大切さが記されている。」

♠宗教法人化するにあたってご苦労された点はありますか。

♣「私自身は苦労した経験がない。久我山教会に沢山の、世間で働いていらっしゃる経験の中から紡ぎ出された誰にでも通じるような言葉が豊かにあることが大変有難い。信徒の方たちが持っていらっしゃる大変有効な言葉、聖書的にみても正しい言葉を持っていらっしゃる。私はそういう方々に助けられて生きてきた。ですから出来るだけ皆様が持っていらっしゃる大事なものを見失わないようにしていこうと思っている。」

♠久我山教会で先生はどういう牧会をずっと心がけてこられたのですか。

♣「大げさなことを心がけていたのではない。ただお互いに兄弟姉妹の関係をもっているという感覚を私は失ったことはないと思う。そういう点は私が自分から考えついたのではなく、目に触れる機会があると思うが基キリスト督教共助会というのがあり、私は青年時代から多くの共助会の先輩方と接してきた。その先輩の先生方の福音書に書いてある通りの謙虚な姿を思い出すたびに、私はとてもそのとおり歩んではいないなということをいつも感じていた。だから今お話ししたことは私が接した先輩方から受けたものであって、私が自分で築いたことだとか、自分で勉強して得たものではない。若い時に出会って接した先輩の生き方は大変なものだった。」

12月に新会堂建築のことについてお聞きしに再び伺った時、尾崎先生のお心にあるのは最初の会堂のことでした。創立間もない久我山教会にとって厳しい試練のように見えたことについても、土地と家を教会にするように捧げられたことへの感謝の言葉でした。実は私たちの気持ちのなかには、ご葬儀が久我山教会でないことへの寂しさがありました。けれど、尾崎先生は久我山教会をご自分が建てたとの思いがまったくなく、どのようなことにも「私が」「私の」という言葉は使われず、「私は感謝している」ということが全てでした。ここ、中渋谷教会、基督教共助会は尾崎先生の信徒としてのふるさとであったと思います。また、熱海の病院での最後の聖餐式について、出席された教会員からお聞きしました。病院であるにもかかわらず、尾崎先生は横たわったままで隣人とそこで働く方々を招かれて聖餐の時をもたれたことを伺い、最後まで謙虚な信徒であられた風伍先生は最後まで牧者であられたことを神様が現わしてくださったと思いました。

ご家族の皆様にとりましては、ここに至るまでどんなに大変な日々を過ごされたことでしょう。令さんと亜紀さんは相談されながら尾崎先生、マリ子先生の居場所を整え、礼拝を守ることをささえ、ご夫妻がまた共に暮らせる準備をしてこられたことと存じます。お二人とお会いする機会を亜紀さんが何度かつくってくださいました。亜紀さんと施設に入ると明るい爽やかな風が吹くようで、まるでずっと以前から共に働いていたように職員の方たちに挨拶をされ、必要なことを語りかけられます。そのことからも尾崎先生が日々の生活の中で、神様の恵みへの感謝とその気持ちを表わすおしみのない愛がご家族によって伝えられていることを知らされました。

最後に、尾崎風伍先生・マリ子先生が隠退される前のクリスマス・イブ賛美礼拝の時のことをお話させていただきます。礼拝の司式は風伍先生で、マリ子先生が説教でした。礼拝の中で会衆がクリスマスの挨拶を交わすのですが、風伍先生は真っ先にマリ子先生の両手をしっかり握られました。そのお姿に感動いたしました、と申しますと「本当はハグしたかったのですが、それは遠慮しました」とにこやかに言われました。お互いに深く尊敬し愛し合っておられることに心打たれました。ここにマリ子先生が居られないことにも寂しさを覚えますが、神さまの愛のうちに共におられることを信じます。

ご家族の皆様に神さまのお慰めが豊かにありますよう、心よりお祈りいたします。

〔この文章は、葬儀の弔辞に加筆したものです。〕(日本基督教団 久我山教会員)