天に富を積む (2010年1月号) 飯島 信
旧約から新約に至る聖書の全編を通して鳴り響いている基調旋律がある。それは、人生の歳月を経れば経るほどより大きく、より確かな音として私に聞こえ、そして問いかけてくる。天に富を積む人生を歩いているのか、それともこの地上に富を積む人生を歩いているのかと。
黒人の公民権獲得運動で名高いマーチン・ルーサー・キング牧師にしても、またインドで「死を待つ人の家」の働きで知らぬ人のいない神の愛の宣教者修道会のマザー・テレサ女史にしても、彼らの働きがいかに尊いものであるのかを疑う人はいない。キング牧師はその非暴力・不服従・直接行動の闘いによって、差別され、抑圧された人々に生きる希望と勇気を与えたばかりでなく、差別し、抑圧していた側にも、その誤りに気づかせ、彼らの人間性を回復する道を指し示した。あるいは、テレサ女史は、死を間近にした行き倒れの人々を、まずその名を確かめることによって、この地上に生を受けた最も尊い存在として受け入れたのである。このように、万人誰もが称賛する彼らのこの地上での働きではあるが、しかし、その働きを指して、天に富を積むと果たして聖書は語っているのだろか。では、聖書は何を問うているのか。
聖書が問うていること、それはその人の心である。行為に先立って、その心がどこにあるのか、天にあるのか、それとも地上にあるのかと。
どんなに名もなき人であっても、あるいは寝たきりの、他人の世話になる以外に生きることの出来ない人であっても、天に富を積む人はいる。一方、この世的に見て、常人のなし得ぬ素晴らしい業績を残した人であっても、地上に富を積む人はいる。その違いは、その人の視線の先に、神の国を仰ぎ見ているのか、それとも地上の名声を望みみているのかの違いである。
キリスト教共助会90年の歴史を顧みた私たちは、また新たな歩みへと踏み出そうとしている。私たちに求められているもの、それは、ただ神の国と神の義を求めての歩みである。そして、それこそが森明を初めとした先達らの歩みである。この世にあっては、与えられた生の許される限りを生きつつ、しかし、その心は常に神が支配される国を仰ぎ見、私たちは2010年の歩みを始めたいと思う。