歴史法廷に立つ覚悟(2010年2・3月号) 高橋 伸明
昨年(2009年)は「日本におけるプロテスタント宣教一50周年」の記念すべき年。私たちキリスト教共助会にとっては創立九十周年の記念の年でした。奇しくも2009年はプロテスタント諸教会にとっても、共助会にとっても、それぞれの歴史の節目になったのでした。キリスト教共助会は創立九十周年記念事業として『基督教共助会九十年の歩み』の編纂を計画中です。私は以前より、後世の歴史家の批評に耐え得るような共助史の編纂の必要性を身近な共助会員の方々に話してきました。それは、一九一九年に森明牧師が設立したキリスト教共助会が90年の歴史を歩んできた小さな信仰者の群れとして、「あなたたちの耕作地を開拓せよ」(エレミヤ4・3)との神の御命令に、自らの全存在を賭けて応答して行くことが必要だと考えたからでした。共助会会員であった旧約学者の浅野順一師はエレミヤ四・三に基づく「新田を耕せ」という説教で、「我々のおかれた歴史の状況、それをそのあるがままに受けとり、そこに上手に自分をあわせていくということではなく、我々と周囲との関係において、何が根本的に欠けているか、そこに欠けていたものを我々が取り戻し、そこにまっすぐに帰って行くことが、ここにいう新田を耕すという意味ではあるまいか」と説いておられます。さて、今回の巻頭言の題とした「歴史法廷に立つ覚悟」は昨年の行政刷新会議の事業仕分けでの科学技術予算への判定で、ノーベル化学賞受賞者である野依良治さんが怒りを込めて語った言葉「仕分け人は将来の歴史法廷に立つ覚悟があるのか!」から借用しましたが、私たちにとっては〝最後の審判〟の譬(マタイ25・31―46)を想起させる言葉です。私たちは、歴史の状況が不安定でどこに向かうかまったく分からないときでも、なお歴史に生きるキリスト者であることが求められているのではないでしょうか。
私たちにとって「歴史法廷」とは、神の裁きの法廷です。私たちが神の言葉によって歴史の諸現実を判別し、時代の状況に流されることなく、やがて必ず神の歴史法廷に立つ時が来るのですから、今、誠実に歴史を生かされ(て生き)る者になりたいと切に祈ります。今年2010年は韓国併合(1910年)から百年目でもあります。私たちはアジア、とりわけ韓国・朝鮮・中国への罪責を告白し悔い改めつつ、韓国共助会の、そして在日の韓国・台湾の友たちとの「主に在る友情」と「イエス・キリストの他自由独立」の根本理念に生かされて、キリスト教共助会創立91年目のこの年も共に歩む者でありたいと思います。