歴史を生きるということ 片柳榮一
一月の基督教共助会信仰修養会に参加して、共助会の先達の歩みを学ばされる中で、今は亡き李仁夏先生と沢崎良子さんの言葉が思い出された。李先生のお話をうかがったのは、確か1980年代の京阪神共助会の修養会であったように思う。そこでの先生のご指摘は深く心に残っている。先生は、明治の初期の日本のキリスト教の歴史を調べていて、明治10年の頃、朝鮮のキリスト者たちを日本へ招いて開かれた会合の記録に出会ったという。そして李先生は、その記録から、日本のキリスト者たちが日本を訪れた朝鮮のキリスト者たちを、文化的先達として深い尊敬のまなざしをもって迎え、交わっている様子がありありと感じられたと言われた。しかしそのような畏敬の念は、日本が1889年に大日本帝国憲法を発布した頃から急速に失われ、日清、日露の戦争を経て行くうちに、畏敬の念ではなく、侮蔑感が個人の発言の中にも多く見出されるようになり、残念ながら、キリスト者の中にもそうした発言が目立つようになっていったという。これを聞いていて私は、明治の初期にはなかったこの暗い歴史の影が自分の足元にも及んでいることを認めざるをえなかった。歴史の責任ということが言われる時、自分はあの時には生まれていなかったのだから、責任などとりえないと言われることがある。しかし自分が生きているこの今に、歴史の重い影が色濃く射しており、そのことに自分は責任があるのだと強く思わされた。
沢崎良子さんは、夫堅造さんの熱河伝道に従い、ソ連参戦の混乱の中、夫と生き別れ、幼子たちと共に、苦しい逃避行を重ね、日本に向かう船の中で、2歳にもならない愛娘と死別された。この沢崎さんと共に、1990年代の始めに韓国で開催された韓日修錬会に参加を許され、10日ほどの旅をさせていただいた。日本軍による教会焼き討ちのあったチアムニも訪れ、生き残った年老いた夫人の方からのお話も伺った。旅行が終わった報告の京都共助会の席で、沢崎さんは独特の低い早口で静かに語られた。
自分は2歳にもならず亡くなった娘の死を何故に、とずっと問い続けて来ざるをえなかったが、この旅で、日本の侵略のあれほどの深い罪を知らされ、娘の死もその償いのうちにあるのかと思うようになったと。長く堪えてきた悲しみがより大きなものに開かれていくようであった。歴史を生きるとはこういうことなのかと思わされた。 (日本基督教団 北白川教会員)