帝国日本の膨張 ― 滿洲国の成立について 加賀美 妙子
後半の修養会では戦中の女性の社会進出について夫沢崎堅造とともに蒙古方面熱河の伝道に赴いた、一人の伝道者の同士としての強い意思がのべられていた。沢崎良子氏の女性として自立した生き方は当時からかなりの困難と苦悩を伴い心痛に耐えられるものではなかった。
ではここで日本にとって滿洲とはなんだったのか、熱河の獲得手段はどのように強行されたのか、国際法は、国内の動きは、中国国内の抵抗は、等々当時の資料を検討することから始めなければと私の使命を強く感じたのである。
・満洲事変と満洲国
1931年9月18日柳条湖事件は関東軍の謀略によるものであり満蒙領有計画自体は29年以降関東軍参謀の石原莞爾らによって着想され軍中央にも同調者を得て、石原らの目的は満洲を領有することによって対ソ、対米戦争に対応するための軍需物資を満洲で集積するとともに、事変を起爆剤として軍部が主導権をにぎり日本国内の政治経済構造を総力戦体制に変革するという「国家改造」に主眼があった。「国家改造」を掲げたクーデター計画は31年3月に未遂に終わり(3月事件)、さらに柳条湖事件直後にも計画が発覚して首謀者が拘束されている(10月事件)。この国家改造への要求は、軍縮を要求するワシントン体制に対する不満を世界恐慌下で困窮する国民や満洲権益の危機を解決できない既成の政治体制の変革を求める少壮将校や大川周明などとも呼応するものであった。さらに関東軍の満洲領有を目指す軍事行動は、朝鮮統治の攪乱要因でありつづける関東地域の朝鮮人独立運動を壊滅させるという目的において朝鮮とも通じるものがあった。そのため朝鮮軍司令官林銑十郎が奉勅命令(天皇の裁可を得た命令)を受けないままに対外戦争を開始したことは陸軍刑法では、司令官に死刑を適用すべき重罪であった。しかし軍事的成功が世論に歓迎される中で天皇が追認したことは現地軍の「独断専行」への歯止めを欠くこととなった。
滿洲事変は政府や、天皇の認可がないままに起こされた対外戦争であったという点で異例な戦争であったが同時に事前に英米などの諸国の了解を得ていなかった点でも、それまでの日本の対外戦争と異質のものであった。(東アジア近現代通史)
・満州事変勃発の4つの特質
- 相手国の指導者の不在を衝いて起こされたこと。
- 本来は政治関与を禁止された、軍人によって主導されたこと。
- 国際法との抵触を自覚しつつ、国際法違反であるとの非難を避けるように計画されたこと。
- 地域概念としての満蒙の意味する内容を絶えず膨張させていったこと。
では何故このような形が選択されたか1から4 までを見ていこう。
1
蒋介石、張学良が不在時だった。蒋介石は南京を留守にしていた。張学良も根拠地瀋陽を留守にしていた。張学良は東三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)の実質的な支配者であり、東北辺防軍司令長官の地位にあった。張学良は31年になると東三省に加えて、華北にも政治的経済的な支配を広げる準備に取り掛かっていた。
〈謀略の深度〉
このような経過を見れば蒋介石、張学良が本拠地を離れたときを狙って事変が起こされたと考えるのは当然だろう。関東軍は日露戦争後、関東州の防備及び満鉄線の保護を任務として置かれた軍隊であった。鉄道守備にとどまらず日本の在満権益を軍事力によって保護する役割(対ソ戦略)を遂行する主体としての役割を次第に強めていく。(山室信一『キメラ増補』)
2
政治干渉を禁止された軍人によって主導された。陸軍側が国防思想普及運動にかけた意気込みは並大抵なものではなかった。「満蒙における我権益を説明し該権益の現状を紹介する。」例が挙げられている。参謀本部第二部長、建川美次は31年 3月3日「我国をめぐる、諸国の情勢」と題して行った講演の内容「17年1月石井・ランシング協定が結ばれてアメリカすらも認めた日本の満蒙権益が2、3年後のワシントン条約において全部廃棄された。」
条約と国際法
「1905年12月の旧清条約の秘密議定により、満鉄に並行する線は敷かないという定めがあるが中国側は無視してこれを造ったのである。」満鉄に関する数字や歴史的経緯を、国民の前に「事実」として波及させた。19年パリ講和会議におけるウィルソンは日本を牽制していった。
3
国際法の抵触を自覚しつつ違反であるとの非難を避けようとしていた点を見ていく。29年に起きた中ソ紛争をケーススタデイとして見ていた張学良率いる東北政権の国権回収によってソ連との間に生じた武力紛争。この紛争にアメリカが介入した。国際法に抵触しない戦争の形態が選択された。結果的に張学良は滿洲の民衆の支持を失ったとの論理である。関東軍参謀の、板垣征四郎と荒木貞夫陸相の会見「9ヶ国条約において連盟規約は日本が直接行為によって支那本部と分離することは許さざるも支那人自身が分離するは条約に背馳(はいく)せず」(太平洋戦争への道)32年11月21日リットン報告書の審議にあたる国際連盟理事会の席上松岡洋右全権は日本人が満洲の独立を計画したとのリットンの報告書に対して「吾々にかかる能力はない。」といった。(国際連盟における日支問題議事録 後編)
31年9月22日関東軍において板垣征四郎、石原莞爾の他土肥原賢二、片倉 哀らによつて東北四省(東三省に熱河を加えた領域)と蒙古を領域とし清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀を頭首とする政権樹立が構想されていた。
4 の特徴
地域概念としての満蒙の意味する内容が絶えず拡大していったこと。「滿洲」とは民族名、国家名であった。19世紀の東三省の領域がヨーロッパ人日本人によってmanchuriaあるいは満洲とみなされるようになった。12年南滿洲と東部内蒙古とを合わせて「満蒙」という語が発生した。
日本側は、当初内蒙古を東四盟と察哈爾部の一部と考えていたが、1928年4月熱河省と改称されたことが関東庁作成の地図からもわかる。日本のとった方法は、言葉を地域に与えついでにその言葉に包含される実態を時間とともに膨張させるやり方であった。滿洲東三省をとるため詭弁ともいえるやり方を貫いた帝国日本を国際連盟はどうみたか。
熱河作戦との連動 32年3月「熱河省兵要地史」によれば熱河を獲得するメリットは、西と北に隣接する中国とソ連から満洲国を隔離する緩衡地帯となる。そして北兵と天津領有に際して東からの作戦が可能であることの二点にあった。既定の計画内であるとの感覚は参謀総長と天皇の間にも共有されていた。天皇は「今日迄のところ満洲問題はよくやってきたが、熱河問題もあるところ充分慎重に事に当たり千儘(せんじん)の功を一簀(いっき)に欠かぬ様に」と発言された。
(『木戸幸一日記』)
国際連盟脱退へ
熱河作戦は撤回できない、ならば速やかに脱退すべきだとの方針を内閣はとった。33年8月、 熱河侵攻を開始する。
中國側から見た熱河
32年5月1日蒋介石は張学良に対して熱河省主席の湯玉隣の処分を命じた。湯 玉 隣が満州国建国宣言に署名したからだった。蒋介石は山海関(河北省)と熱河省が東北軍の根拠地であったため張学良に湯 玉 隣を処分させ今回の件を契機に熱河省を、国民政府統治下に入れ滿洲国に対するゲリラ戦の基地に利用しようと考えていた。長城を超えて、張学良の東北軍が熱河に入れば関東軍によって東北軍は撃滅されるだろう。蒋介石はこれだけの張学良の直系部隊があれば日本は攻撃して来ないと観測していた。しかし現実は蒋介石の期待を破り、2月23日関東軍2個師団による熱河侵略作戦は開始された。2週間もたたずに熱河が陥落したことで蒋介石は張学良の辞任を求め3月9日張学良は辞任する(黄 自 進「蒋介石と滿洲事変」)。この時期帝国日本は隣接する察哈省も領有している。この二省は東部内蒙古と呼ばれた地域である。
中國は熱河作戦をどう見たか
1933年2月23日、日本軍は熱河に本格的な攻撃を開始すると王 兆 銘や胡適は「中国が何故ここまで駄目になったかを深く反省しなければならない。熱河の惨敗から得た我々の最大の教訓は我国のおかれた地位を深く認識し弱国としての真の復興の道を着実に、歩まなければならない」。
日中戰争
37年7月7日 北京郊外の盧溝橋にて日本軍と中国第29軍との間の日中両軍の偶発的な衝突は8月13日、上海の日本租界における市街戦(第2次上海事変)に発展し全面戦争化した。(江口圭一『15年戦争史』)
まとめ
ここまで見てくると昭和戦前期の日本は国防思想普及運動によって国民を巻き込み煽動し滿洲事変への支持を調達した陸軍などが真に目指していたものと国民の前で展開された論理との間にはずれがあった。石原莞爾の構想として対米戦の補給基地としても満洲は必要とされた。しかし、それは国民の前で伏せられ、条約を守らない中国という構図で国民の感情を排外感情として火が点ぜられた。良子氏は「この地域社会の人々との生ける交わりが日本の、広くアジアの人々への伝道の重要な一過程で今日も昨日も神なき人々の中に生きていこうと思う。神の恵みの御手と友の祈りの支えとを信じて」と。地域の人々との生ける交わりとは外交でありこの時期の熱河の戦争の中で伝道活動とは。外交の時期だったのか。「日本人を何処の国民→17頁へ