故郷のかかりつけ医を志して、成し遂げた岡田長保兄  林律

【追悼 岡田長保氏】

2021年5月23日、脳腫瘍にて療養中の岡田長保さんが亡くなられた。10数時間に及ぶ大手術を受けられて寝たきりになられ、3年に及ぶ療養生活を余儀なくされたことを想うと、その忍耐力の強さとご労苦は大変なものであったと思わざるを得ない。お見舞いに上がると、「昨日、奥田先生が来てくださいましてねー」と、苦しいはずの病床で、ユーモアたっぷりの応答。当初は、そんなことあり得ないと否定しそうになったが、兄の心の中に奥田先生の占める場所の大きさに気付き、「良かったですね」と同調するのが毎度のことになった。

兄は淡路島北端の岩屋の育ち、明治以来の醤油、味噌醸造業の家に生まれ、旧制静岡高校に入学。卒業後間もなくの大学入試直前に肺結核に罹患、大学入試を受けられぬまま故郷の淡路島に帰り、6年間という長期の療養をされた。その経験から医師を志す決心をされ、病癒えた後に京都大学医学部に入学された。私も同じ医学部の卒業であるが兄より一学年下であった。わずか一学年差であるが兄は私より6歳年長であった。

ご自分の療養経験から、卒業後は京都大学結核研究所内科で研鑽を積まれ、アメリカのスタンフォード大学に留学されて学問的な業績も積まれた。

私生活面では、1960年、奥田成孝先生司式により、小児科医である照子さんと結婚され、不肖私もその席のオルガン伴奏を担当する任を与えられ幸いであった。

この夫婦の誕生を機に、奥田先生は川田 殖・綾子、岡田長保・照子、林 律・貞子の三組の夫婦の家庭集会を回り持ちで数ヶ月に一回程度開催することを指示されて、先生の御出席を得ての聖書の勉強と交わりの集いが数年間続いた。この交わりの密度の濃さは私たち六名の信仰生活の基礎になったと感謝は尽きない。

兄の信仰生活について言えば、兄の静岡高校の寮生活でめぐり合った終生の友の感化で(信仰の源流に立つ友への感謝、「共助」669号)岩屋キリスト教会の礼拝に出席し、永井 与吉郎牧師より洗礼を受けたのが出発点であった。

やがて岡田さんは故郷の人々の生活を医療面で支える使命を与えられて、1967年に岩屋に内科小児科診療所を設立された。この時に北白川教会から奥田先生以下10数名の者が訪問し、激励に行ったつもりが大歓迎に浴すことになってしまった事も忘れられない。

当時の兵庫県津名郡は人口約7万人もあったのに、医療機関が少なく、病院は小さなものが一つだけという医療過疎地であったという。岡田医院が始まると、患者数はたちまち一日に150人から200人に膨れ上がり、朝から夜10時までの診療が続いたという。

開業から引退までの46年間に作成されたカルテ番号の最終ナンバーは3万2千657であったという。すごい数字に圧倒される。この間の前半は感染症の時代、後半は生活習慣病と高齢化の時代と特徴付けられると兄は言う。感染症では肺結核が多かった。

午前中の外来診療が終わると午後は5~10軒の往診があり、時に深夜の山道を歩いての往診もあったとのこと(「ゆるし」と「学び」のなかで、『共助』470号)。開業後の10年間は24時間勤務であったと記している。

そのような状況の中で、日本の医療を取り巻く環境は次第に整備されて行き、まず健康保険の普及、老人保健法の整備、介護保険の普及などで、兄の医師としての仕事も変化して行った。

「昔、往診に明け暮れ、不十分な介護、不十分な医療の不全感に悩まされたことを想えば、今昔の感にたえません」と述懐している。

また、「介護する者が、家族であれ他人であれ、最後を迎える場所が、自宅であれ病院であれ、アルフォンス・デーケン教授が申されたように『何かを〈する〉治療法は無くなっても、最後まで患者のそばに〈いる〉ことはできる。心の交流による温かい援助が何よりも必要である。』ということを、医療者として、あるいは介護者として、覚えたいと思います」と記している。晩年の兄の医療姿勢の根幹をなす言葉であろう。開業46年間の途中で照子夫人が癌や腎疾患にかかられて、大病院のある神戸に転居された。それからは車で明石海峡大橋を通っての通勤となった。そして2013年に86歳で引退されることになった。ここで私が大変驚いたことがある。それは、地域住民主催の「岡田先生感謝会」の開催である。ビデオを拝見して驚いたのは、何百人と入る大ホールで沢山の地元住民の方々の参加があり、心のこもった大イベントであった。それは兄がいかに地域住民を愛し、愛されていたかを如実に示すものであった。私は耳鼻咽喉科医であるが、このようなことは私の世界では聞いたことも見たこともない。私が内科医に対して嫉妬を感じた瞬間でもあった。

知人夫妻に宛てた手紙の中で、「ついに12月28日を迎えました。万感胸に迫る思いでございます。全く不出来な歩みでしたが、このような者を46年間、ゆるし、用いて下さった神に感謝し、また、地域の皆様の寛容と温かさに感謝を致すほかございません。最近は、診察室でも、道行く時でも、会う人ごとに、『長い間、お疲れさまでした』、『先生も長生きしてね』、『これからも、時々、岩屋に来てね』、『これから奥さんとゆっくりね』など、本当に温かい言葉をかけられます」と書き送っている。

診療所は長男の明彦氏夫人の有美医師によって引き継がれて、立派に運営されている。

引退後、兄は照子夫人の介護に専念された。私の妻が夫人を

訪問するたびに、いかに兄の看病振りが素晴らしいか、に感じ

入って帰って来た。「自分には出来そうもないよ」と答えるしか

なかった。

淡路島は京都からは遠いので、開業に当たって教会籍を北白川教会から日本基督教団神戸教会に移された。そこでも多くの信徒たちから信頼されて、長保さんは長老を務められ、照子夫人は付属幼稚園の園医を務められた。

このような良き友を与えられた私共夫婦であることを、神に感謝せずにいられない。

参考『故郷のかかりつけ医を志して』岡田長保・照子共著(非

売品)(日本キリスト改革派 千里摂理教会員)