聖書研究

今、「主の祈り」を祈りなおす 朴大信

【聖書研究 主の祈り 第一回】

ルカによる福音書11章1~4節

はじめに

全6回の予定で、しばらく「聖書研究」を担当させて頂くことになりました。聖書学者でもない私が、この看板を背負うことはあまりに荷が重すぎると躊躇しましたが、飯島信委員長より、「学者としての専門的なものより、むしろ聖書をどう読み、何が問われ、どう生きるかを一貫したテーマにできれば」との思いをうかがい、それならばと背中を押されました。目を光らせながら聖書を読み込むというよりは、聖書自身が、本来、私たち人間をどのように読み込み、見つめ、そこで何を語りかてくるのか。またどこに向かって、誰と共に歩んでゆくことを願っているのか。そのようなメッセージを受け取りながら、この自分も応答する。そうした聖書との親しい対話を続けていけたらと思っています。

そこで、今回の連載テーマとして私に示されたのは、「主の祈り」です。この祈りの言葉の一つ一つにあらためて親しみなら、実際に祈ってゆく歩みを共に深めたいと願っています。祈りは、信仰生活の呼吸だと言われます。私たちの体が息をしないと生きてゆかれないのと同じように、私たちの信仰も、息をしていないとやがて命絶えてしまいます。その信仰の呼吸に当たるのが、何より祈りです。そして主の祈りは、まさにその私たちの祈りを支え、整え、神との豊かな交わりへと導いてくれるものだと思うのです。

実は、この「聖書研究」において「主の祈り」が取り扱われるのは、これが初めてではありません。共助会の大先輩であられた李イ 仁イン 夏ハ 先生が、「み国が来ますように―主の祈りの断想」という一貫した主題で、既に本誌でご連載くださっています(1999年7月号〜2000年5月号)。「断想」に留まらない豊かな神学的・信仰的思索が、まさに混沌たるこの地上に「み国が来ますように」との祈りに貫かれて書き綴られた、珠玉の文章です。以来、四半世紀近くを経た今、私もこれに多くを学びながら、今なお御国の完成へと向かうこの歴史のただ中で、あらためて現代を生きる私たちがこの「主の祈り」を祈り続ける意義について、そのリアリティについて、新しく受けとめ直したいと願うのです。

「主の祈り」の始まり

さて、主イエスはどんな日常生活を送っておられたのでしょうか。全てが分かっている訳ではありませんが、一つはっきりしていることがあります。それは、この方は常に祈るお方であったということです。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。……』」(ルカ11:1~2)。

主は弟子の一人に、「わたしたちにも祈りを教えてください」と頼まれて、そこで即座に祈りを教えられました。しかしそこで為したことは、祈り方の解説ではありません。祈りそのものでした。しかもそれは、主が心の奥底でいつも神に深く祈っておられた祈りではなかったでしょうか。つまり、主ご自身の日常の祈りを映し出す祈りと言っても良いでしょう。弟子たちに特別に教える祈りと、ご自分が普段祈る祈りとを、分けられたのではない。まさにご自分の祈りを分かち合ってくださった。この祈りこそ、文字通り、主ご自身の祈り=「主の祈り」ではなかっただろうか。私にはそう思えてなりません。

周知の通り、この祈りは、マタイによる福音書も第6章で書き記しています。そちらの方が、言葉としては整っています。事実、マタイを基にして、今私たちが受け継いでいる主の祈り作られたと言われます。それだけに、ルカが伝えるこの祈りは、その素朴な原型を示すものとして見ることもできるでしょう。

ここに、祈りとは何であるかが端的に、集中的に言い表されいる。その一つ一つにこれから少しずつ馴染んでいきたいわけですが、初回となる今号では、特にこの祈りが生み出された背景について、引き続きルカ福音書から汲み取ってみたいと思います。

神を呼ぶ喜び

先述のように、この祈りは、弟子からの求めに応じて主が教えてくださった祈りとして、伝えられています。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」。しかしこの求めは、その直前にまず、主イエスが一人で祈っておられた場面を前提としています。その祈る姿を弟子たちはじっと見ていたのでしょう。あるいは、その祈りの言葉に聴き入っていたのでしょう。ともかく、その祈りが終わるのを待ちかねていたかのように、弟子の一人が主イエスに近づいて、自分たちにも祈りを教えて欲しいと願ったのです。飛びつくように迫ったかもしれません。それだけ、弟子たちの目に映った主イエスの祈る姿は、何か特別な輝きを放っていたことを想像させます。

この輝きということで、以前、目の覚めるような思いで聞いた一つの話を思い出します。ある人が洗礼を受ける前、求道者として過ごしていた時の話です。その教会の牧師は、求道者たちに対して良く「祈りなさい」と言ったそうです。つまり、まだ求道中だから祈れなくても仕方ないとか、洗礼を受けてから少しずつ祈れるようになれば良いとか、そんな甘えは許されない。信仰を求め、神を求めるということは、「神様、どうか信じさせてください」という祈りになるはずだ。この祈り無くして、そもそも求道も成り立たない。そんな風に牧師は畳みかけたのです。けれども求道中だったその方は、やはりどう祈ればよいか分からず、だんだん煮詰まって、困り果てた。ところがある時、どうしようもない思いに促されるように、ふと思い切って「神さま」と呼んでみた。そうしたら、言えた。「神さま」と呼べたんだと、涙ながらに語ったというのです。

私はこの話を、その教会の牧師から聞かされた時、とても心動かされました。と同時に恥ずかしい思いも致しました。おそらく私含め多くの読者の皆さんは、もう祈りというものは、いくらでも重ねて来たことでしょう。その祈りの初めに神の名を呼ぶということなど、もう当たり前過ぎて、何でもないことだと思っているところがあるかもしれません。「神さま」と呼ぶことは、祈りが始まる枕詞くらいにさえなっているかもしれません。

ところが、その方は他の言葉で祈ったのではありません。長文を連ねたのでもありません。ただ「神さま!」とだけ、一言発した。その言葉が言えた。そのようにして祈れた。そしてそれを、目に涙を浮かべながら喜んだのです。もちろん、こんな単純な祈りよりも、もっと立派な言葉で祈る数々の祈りを、私たちは知っています。しかし神を呼ぶということ一つにも、こうした瑞々しい喜びや感動があるのだということ。否、むしろそのように、この自分が神を呼んで祈ることができることは、それ自体が奇蹟とも言うべき驚きなのだということについて、私たちはどこかで、いつの間にか忘れ去ってしまってはいないだろうか。そんなことを、自戒と共にはっと気づかされるのです。

弟子たちも、そうだったのではないでしょうか。自分ではうまく祈れない。心から祈れない。弟子として情けない。ヨハネの弟子たちのように、ちゃんと祈れる言葉が欲しい。イエス様が祈られる姿は、言葉は、なぜあんなに輝いているのだろうか。「わたしたちにも祈りを教えてください」。この弟子たちの願いは、実は今も相変わらず続いているように思います。私たちの中で渦巻いているのです。うまく祈れない無力感。祈りが聴かれない空しさ。あるいは、祈りに対する葛藤や抵抗。そんな私たちの思いが、祈りをさらに妨げてはいないでしょうか。そういう意味では、私たちの祈りは、ちゃんと祈れるようになるための、まさに祈りのための祈りの中を、ぐるぐる回っているだけなのかもしれません。

私たちを新しくする祈り

いったいどう祈ったらよいか。何をどう祈ったらよいのか。もしそんな重苦しさを悶々と抱えているならば、「主の祈り」はまさにそんな私たちを、暗闇から導き出してくれるに違いありません。祈りを妨げる様々な人の思いから、神の思いへと引き上げてくれるのではないか。私たちが神に向かって祈る時、その神がどのようなお方であるかをもっとはっきりと、近くで教えてくれるのではないか。そして実際この祈りを祈り続ける中で、実は自分こそが、神に深く知って頂いている存在なのだという平安が与えられるのではないか。祈りを通して、本当に生きて働かれる真の神と繋がることのできる道を、この主の祈りは歩ませてくれる!けれども、他方でまた、私はこうも思うのです。実はこの祈りは、私たちの祈りに対する身勝手さや傲慢さにも光を当てて、正しい祈り、否、正しい神との交わりへと悔い改めさせてくれるものでもあるということを。

そうすると、主の祈りは、いつも優しい仕方で、私たちを祈りの道へと押し出すものとは限らない、という風にも言えます。否、むしろこの祈りは、その言葉の一つ一つが、実は私たち人間の自然な思いや願いといった心の動きにことごとく逆らってくるもの、とさえ言えるのかもしれません。私たちの生き方に、真っ向からぶつかってくるのです。

ある人が、祈りについてこんな興味深いことを言っていました。私たちが祈る時、神にまず祈り求めるのは、神の御名とか栄光のことよりも、本当は自分自身のことではないだろうか。だから、もし主の祈りが次のようだったら、私たちにとってもっと祈りやすかったかもしれないと。それはこんな祈りです。本来の主の祈りの言葉に一つ一つ対応させてみましょう。

この地上のすぐ傍にいてくださる、私の神様。(天にまします、我らの父よ)

願わくは、私の名前を覚えていてください。(願わくは、御名をあがめさせたまえ)

私の支配力と縄張りが大きくなりますように。(御国を来たらせたまえ)

私のこの世での願いが実現しますように。(御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ)

私に一生分の糧を与えてください。(我らの日用の糧を今日も与えたまえ)

私に罪を犯す者をあなたが罰し、私の正しさを認めてください。(我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ)

私が誘惑にあって悪に溺れても、私だけは救い出してください。(我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ)

国と力と栄とは、限りなく私のものであるべきだからです。(国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり)

アーメン

まさかこんな祈りをして、さすがに最後の「アーメン」は言えないと戸惑うなら、私たちはそのアーメンさえ取り払ってしまうかもしれません。それを取ってでも、神にあれこれと自分の願いを聞いてもらいたい。叶えてもらいたい。そんな風に祈る祈りが、ここまで極端ではないにしても、私たちの祈りになっていないだろうか。もちろん、自分の願いを露わにすることいけないということではありません。何より主イエスご自身が、それを否定されません。「求めなさい。そうすれば、与えられる」。「探しなさい。そうすれば、見つかる」(マタイ7:7)。

しかし、その主イエスがここで教えてくださっている「主の祈り」は、たとえ人の心の傾きに逆らってでも、神ご自身が本当に良いものを与えてくださるお方であるということを、どこまでも信じさせてくれる祈り。それこそを希望と喜びとし続けることができる歩みへと導いてくれる祈りです。そこに向かって私たちを縛るのではなく、解き放ってくれる祈り。なぜならば、「パンを欲しがる自分の子供に、石を与える」親がいないように、また、「魚を欲しがるのに、蛇を与える」親がいないように、天の父なる神は、求める者に対しては、その求める者本人さえ気づいていない最も良いものを、時を得て与えて満たしてくださるお方だからです(マタイ7:9~11)。

そのようにして、私たちはこの主の祈りというものに、おそらく一生涯かけて習熟しながら、何千回、何万回とこれを祈り続けながら、この世にあって特別な生き方ができるように導かれてゆくものなのかもしれません。主の祈りは、キリスト教信仰の「小さな学校」とも言われる所ゆえん 以が、ここにあります。神が、私たちの真の神でいてくださることを知るための学び舎す。私たちがどんな時にも、独りぼっちにならず、また独りよがりにもならずに、神の確かな愛の中で共に生かされ続けるための、幸いなる導き手です。

おわりに

コロナ禍によって、多くの教会が、礼拝の来会制限や発声制限を設けざるを得ない痛みを経験しました(しています)。私も牧師として、会衆を代表する意味で私一人だけ声に出して、主の祈りを祈る時期がありました。けれども不思議なことに、そのような異様な制限下にあっても、会衆が同時に心の中で共に祈っていらっしゃるその祈りの声が、ともすれば普段以上に聞こえてくるのです。

しかし、そこでもう一つ不思議な声が聞こえます。そのように会衆と共に心を合わせて祈る時、その向こう側から、もう一つの声を聴くのです。例えるなら、映画やドラマでよくこのような場面があります。ある主人公が、自分宛に届いた手紙を読み始める。するとその読み上げる声に、手紙の差出人の声が重ね合わさって来る。そしてついには、差出人の声だけが響き出す。

主の祈りは、一人で祈る時の助けとなる祈りであると同時に、共に祈り合う、共同体(教会)にとっての尊い祈りでもあります。「天にまします我らの父よ……」と祈る時、その言葉を共にする仲間の声が聞こえてきます。しかしその合わさった声の向こう側から、もう一つの声が聞こえてくる。弟子たちにこの祈りを教えられた、主イエスご自身の祈りの声です。そしてついには、その主イエスの声をなぞるようにして、今度は私たちが一緒にそこに祈りを重ね合わせてゆく。そうしながら、少しずつ、キリストと共に、真実に御前に祈る群れとされてゆきます。幾重にも響き渡る、まるで祈りのオーケストラのように。

私たちは今日もまた、この祈りを祈り続けます。喜びの時。悲しみの時。順境の日。逆境の日。そして死の床においても。人生の旅路と共に、繰り返し、この主の祈りが祈られてゆくでしょう。でも決して一人で祈るのではないことを、また自分のためだけに祈るのでもないことを、この祈り自体が教えてくれます。そのことを、主の祈りの言葉の一つ一つが指し示す道筋に沿って、これから学び、味わい、喜びたいと願っています。(続)

(日本基督教団 松本東教会牧師)