本土復帰50年に思う~沖縄に生まれ・暮らしから~平良 久美子

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12: 15)沖縄に住んでいる私たちのことを気にかけ、祈りに覚えてくださり感謝します。これまで『共助』誌に「乳癌をすこやかに病む」証しを書かせて頂きました。私は沖縄で米軍基地問題に取り組んだり、辺野古新基地について『共助』誌で情報を伝えたりとか、特に活動をしているわけではありません。「沖縄がアメリカから日本に返還された本土復帰から50年を迎え沖縄に生まれ、沖縄に住んで感じていることを書いて欲しい」との依頼がありました。私は戸惑いを感じつつも勧めに押し出されイメージもないまま引き受けてしまいました。いざペンを握っても何を書くのか、なかなか定まりませんでしたが、「沖縄に住んでいるキリスト者として」の祈りとキリストにある恩師や友人たちの祈りにも支えられ思いが与えられました。

ご承知のこととは思いますが、沖縄はかつては琉球王国でした。王国時代交流の深かった中国からは武器を持たない守禮の邦と称賛されていたようです。沖縄の地理的特性に加え歴史的、政治的情勢から中国、米国、そして本土と時代に翻弄されながら特有な歴史を歩むことを余儀なくされてきました。戦後77年、復帰50年を迎えますが、地上戦により鉄の暴風に襲われるも徐々に復興を遂げてきました。が今なお広大な米軍基地を有しています。

今年の8月は台湾近海で中国が演習を開始したことで、終日軍用機が我が家の上空を騒音をまき散らしながら飛んでいます。その様な日常で、私自身の復帰の前後に体験したこと、生活を振りかえり整理してみました。宮森小学校ジェット機事故の当事者として私にとって復帰を語る上で、小学2年生で体験した宮森小学校ジェット機墜落事故は切り離すことのできない、また忘れることのできない出来事です。

1959年6月30日午前10時40分ごろ、当時石川市(現うるま市)上空を飛行中だった米軍嘉手納基地所属の戦闘機が突然火を噴いて操縦不能となり、宮森小学校近くの住宅地に墜落したのです。衝撃によって跳ね上がった機体は宮森小学校に突っ込み、6年生のコンクリート校舎に激突。学校に突っ込み機体から漏れ出した大量の燃料に火が付き、住宅と2年生のトタン屋根校舎の3教室などは全焼したのでした。

その時は、ミルクだけの給食時間で私が友人と用具返却のため教室を離れた瞬間、大きな爆音を立てながら事故は起こりました。被害状況として18人が死亡(児童12人=うち1人は後遺症で死亡、付近住民ら6人)210人が重軽傷を負う大惨事となった事故でした。私のクラスでは6人が死亡、大勢がやけどを負いました。私は教室を離れていたため傷を負うことはなかったのですが、子ども心に戦争が始まったと思い震えながら、一目散に家に逃げ帰りました。学校の中を逃げ回る途中でシャツを血で真っ赤に染めた先生方が走っているのが見えました。

どのくらい時間が経過したのかわかりませんが、両親の声がしたため、押し入れからやっとの思いで出たのでした。事故後米兵の監視があり学校にも入りにくい状態だったようですが、両親は遺体の中に我が子がいないことがわかり、病院に向かう準備に帰って来たとのことでした。事故から今年で63年目になりますが、私はいまだに学校には足が向かず、爆音や花火の音に恐怖を覚えます。最近の新聞に掲載されていた、事故の翌年1960年米軍の内部文書によると「不慮の事故は有史以来全く普通に起きている出来事だ。石川の悲劇は何も目新しい要素があるわけではない。」と事故を矮小化する記事を読み、当事者として沖縄はないがしろにされていたと強く感じます。

復帰から32年経過した2004年に沖縄国際大学構内(宜野湾市)に米軍へリコプター墜落事故が起こりました。基地から沖縄の上空を飛ぶ軍用機があるかぎり危険性は何も変わりません。

京都での生活

兄が京都大学に在学していたため、両親も京都での看護の学びを許してくれ、看護師を目ざし、1970年京都の日本バプテスト看護学院(2020年閉校)に入学しました。

入学時パスポート( 琉球住民と記載)持参で鹿児島から北上し京都に来ました。沖縄ではドルを使っていたのですが本土は通貨が円であり私にとって、まるで外国のようでした。「沖縄では英語をしゃべっているの」と勘違いされることがよくありました。

入学時1970年は毎月50ドルの送金をしてもらい、為替を1ドル360円で18000円に換金して学費・寮費・食費に当てていました。が復帰1年前、1971年ニクソン大統領の変動相場制のため、1 ドルが約3 0 0 円で換金金額が15000円となり差額3000円が目減りし苦しい生活を強いられたのでした。

翌1972年5月15日、沖縄は27年間のアメリカの統治下から本土復帰しました。1970年~1978年、私は学生生活と卒業後5年間、京都で看護師として生活し、8年間は北白川教会で奥田先生や小笠原先生の指導を受けながら礼拝を守っていました。復帰前後の8年間は京都で生活していた為沖縄の復帰直後の様子や変化は体験していません。沖縄に居る母が、半身不随となり父だけでは介護を続けることが出来ず、沖縄に戻ることになりました。

京都に向かう時はパスポート持参で、沖縄に引き上げの時はパスポートなしで帰れることに復帰して良かったなと単純に思いました。

思うところあり、保健師の国家資格を取るため1年間県内の保健学科に進学しながら父と二人で母の介護を担っていました。復帰のもたらす出来事を当時は想像さえできませんでした。

復帰を振り返り思うこと 

①保健師の仕事を通して

当時、沖縄県は保健師駐在制(保健師は県身分で全市町村に配置されて公衆衛生活動を行う)が施行されていました。

保健師として体験したことや先輩保健師たちから聞いた、基地あるが故の人々の生活と苦悩等、事例を紹介します。

・未熟児の訪問をしてみると、児はかなり痩せ細っていました。父親は米兵で祖国に戻り、連絡もとれない様子でした。母親は生活に困窮しても実家からの援助がなく、精神が不安定で過去に数回の自殺未遂や、上の子に身体虐待していたのでした。

・ある地域では、父親が米兵で認知されず小学校入学時に多くみられた無国籍児童の問題がありました。母親は生活のため仕事に追われ対応が後回しとならざるを得なかったようです。

・面積85%に米軍基地を有する町は騒音による健康問題もあります。低体重児の出現割合は騒音被害の少ない自治体と比較しても差がありました。騒音だけでなく、水道水の環境汚染(有機フッ素化合物等)もあります。私たちは基地に由来するさまざまな生活問題について苦しむ現状がありました。

②沖縄の復帰前後の生活の中から

復帰して良かったですかと問われることが度々あります。復帰の時期や条件等についてさまざまな問題や意見が多々あります。私が良かったと言えることは、日本人であることの意識が強くなったことや本土との往来が自由になったことです。

目に見える復帰を感じさせることの一つは、ドルから円への通貨の切り替えです。変動相場制の影響で生活の混乱等があったとよく聞かされました。当時小学1年生だった甥は1セントで買えたお菓子が10円となり、とても損した気分だったと話していました。つまり1セントは3円となり3倍の値上げになったのです。

二つ目は自動車の通行を本土の通行方法に変更することです。米軍統治下では、沖縄の交通はアメリカと同じ「右側通行」でした。京都在住時は「左側通行」に違和感を持ちました。復帰から6年後1978年7月30日朝6時サイレンが鳴り響く中、大勢の人々と共に陸橋の上から「左側通行」に変わるのを見学しました。慣れない運転でしばらく事故も多発していました。

復帰しても変わらないことは、基地の撤去・縮小が進まないこと、軍関係者の事件・事故が後を絶たず起こっていることです。

復帰前1963年「国場君れき殺事件」横断歩道を歩行中の中学生に米軍人が交通死亡事故を起こすも、沖縄側には捜査権はなく軍人・軍属に関する刑事裁判を取り扱う軍法会議で無罪となりました。米軍統治下では不条理さがまかり通っていたのでした。私も当時中学生でしたので怒りを禁じ得ませんでした。

これらの事故の米兵への対応等を通し県民の心に切実な思いで復帰運動の機運が高まっていったと思われます。しかし復帰も米兵による婦女子への乱暴強盗、殺人事件などは後を絶ちません。「米兵の少女暴行事件」に抗議する県民総決起大会に私も、友人たちと参加しました。8万5千人が集まり、日米地位協定の見直しや基地の整理統合を求める抗議決議を採択しています。また県民投票も行われ県民の72%が辺野古新基地建設反対の意思表示をしていますが、何ら解決に至っていません。無力感に苛まれ、祈りに導かれます。

普天間飛行場騒音訴訟原告団の、空襲等を体験した83歳の会長が「普天間基地の閉鎖・撤去、騒音をなんとかして欲しい、市内でたびたび起こる軍用機の事故、また事故が起きないか不安が常にありますよ。辺野古へ移設を求めると我々と同じような苦しみを辺野古は負う。自分が大変と思うことを他の人に押しつけることになる、だが妙案とは思わないが辺野古への移設が近道なのかなと葛藤を抱く」とテレビのインタビューに答えいました。米軍基地を巡っては県民の中での対立を煽っている現実がここにあります。

基地を容認することは戦争に加担することであると戦争を体験した人の心情であり、私も強くそのことを思います。

「沖縄の基地を引き取る会」活動

2018年新聞で東京や福岡等の「沖縄の基地を引き取る会活動を知りました。基地を引き取ることは「本土の沖縄化」である、「安保の廃止を闘い取る」との主張のあることも知りました。沖縄の軍用基地を引き取るということは、軍用基地から派生するさまざまな問題も、その地域の人々が負うことになるのです。

私は沖縄の基地を引き取る会活動が、軍用基地の実情を知らない人に対し、軍用基地が戦争に加担する痛み、基地から派生する問題を共有する機会となることに期待しています。

キリストにある本土の友たちとの交流

① 2003年小笠原先生は沖縄キリスト教学院大学で特別講演(北と南の悲しみと苦しみ、そして恵みの里)のため沖縄に来られました。私も講演を聴く機会を得ました。復帰前1970年の沖縄に来た時の回顧の話もありましたが、その時は先生のお話を十分理解できていなかったことに最近講演録を読んで気づかされました。「復帰前に首里に来た時、首里の昔の写真は御所のように鬱蒼とした森のようでしたが、自分が見た首里は首里城も焼かれ、丘も飛ばされ、木もない、地上戦の爪痕を見て悲しみと苦しみが迫り、その衝撃は忘れることが出来ません。その時イエス様の十字架でのエリ、エリ、レマ、サバクタニと言う叫びが、私に聞こえました。鉄の暴風で壊されていく沖縄、その中でイエス様が復活するように、この沖縄も必ず平和になってくる。」と記載されていました。先生が沖縄の私たちの痛みに、深く共感されていたこと、またイエス様にある希望も語られたことに気づき私の励みとなりました。

② 2020年青森の小笠原順夫人が北白川教会の姉妹と共に沖縄を訪ね、嘉手納飛行場やフェンス越しに軍用基地を見学し、思った以上に広大であることに驚かれた様子でした。2018年北白川教会の友と辺野古や高江に行く機会が与えられ、体験を次のように北白川通信に書いています。「辺野古や高江に足を運んでいる人々と共に、今後も色々な形で新基地建設反対行動を続けてゆきたい。」「沖縄の本当の平和は必ず実現する、実現してくださる方に目を向けてあきらめず、祈りを強くし、私たちも共に連なりたいと思いました。」「辺野古ゲート前、非暴力で座り込みをされている方々には敬意を抱いておりました。辺野古へ行って一日であっても寄り添いたいと思いました。」沖縄の痛みに共感し今も祈りで繋がりを深めています。

基地のない沖縄を望んで今思うこと

基地のない平和な島を取り戻すはずだった復帰から50 年たっても軍用基地は縮小されず派生する問題は起こっています。復帰前アメリカは、軍用車のナンバープレートに「KEYSTONE OFTHE PACIFIC」と記載しておりました。私は、今も沖縄の軍用基地を地理的条件等から要石と位置づけているのではないかと思います。普天間基地を辺野古に移転すると言いますが、単純な代替施設ではなく、普天間飛行場にはない(弾薬搭載エリア、航空燃料を運搬するタンカーの接岸桟橋等)機能が加わり、県民に新たな基地負担を強いるのが辺野古新基地建設なのです。沖縄に住む私は、辺野古に新基地はいらない、戦争を起こしてはならないことを切に望みます。沖縄を理解したいと御心を求めて祈り合うキリストにある友たちと繋がりつつ、主にあって健やかに病と共に私なりに歩んで行きたいと思います。

*50年前と今年の新聞:まったく変わらない現実   (沖縄キリスト集会)