「主の祈り」の極みを見つめて 真のアーメンとともに 朴大信

はじめに

最終回を迎えました。当初は全6回でしたので、前回が最後となるはずでしたが、要領を得ない私の筆致と、しかしこの祈りの汲み尽くせぬ豊かさの故に、もう一回分の紙幅をお願いし、有難くも与えて頂きました。

本シリーズは「聖書研究」という名の下で続いて来ましたが、初回でも述べたように、「学者としての専門的なものより、むしろ聖書をどう読み、何が問われ、どう生きるかを一貫したテーマにできれば」との飯島委員長からの思いに背中を押され、筆を執り始めました。聖書を様々な仕方で読む私たちに対して、むしろ「聖書自身が、本来、私たち人間をどのように読み込み、見つめ、語りかけてくるのか」……そうした問いかけを受けとりながら、私の中で積み重ねられた聖書との対話の痕跡を少し整理したような文章となりました。厳密な意味での聖書研究というよりは、一つの聖書黙想として、最後までお付き合い頂けましたら幸いです。

誘惑・試練・悪からの救い

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ6・13)。

この言葉を、主イエスは祈りの最後の言葉として教えられました。教会では大抵、これを「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という風に祈ります。この後に「国とちからと栄えと……」と続くことは周知の通りですが、これは後世の教会が加えたもので、主ご自身はあくまで、13節の言葉で祈りを閉じられました。

なぜ、この言葉が最後だったのでしょうか。しかもこの祈りは、かみ砕けば、私たちの叫びにも似た言葉です。「神さま、助けて! 私たちを誘惑や試練から守ってください! どうかこの悪から救い出してください!」。しかしこうした叫びの声を、主は「祈り」としてくださいました。これを祈りとして聞き上げてくださる方がいるのだから、そのお方を信じて祈ってご覧。そんな促しや励ましさえ伝わってきます。

窮地の中で助けを必要とする時、ここに、その助けを求める祈りが与えられています。キリスト者にとって、信仰とは賜物であり、この世を生き抜くための武具です。しかし武具さえあればどんな困難も大丈夫、とは主は仰いません。むしろ、なお助けなしには生きられない存在であることを知れ! 否、信仰によって強く生きようと願うならなおさら、真の助けの源を、お前はどこに置くだろうか? そのように、鋭く我が身が問い正されてもくるのです。

はたして、私たちは自分が本当に必要とする助けを、神に心から祈り求めているだろうか。どこか遠慮したり、疑ったり、裏切られて傷つく自分を恐れたり、あるいは自分ですべて解決できると過信したり、自己責任という呪縛に囚われたり…そのような姿を引きずったまま、結局のところ、神の御前に真剣な祈りを注ぎ出せていないのではないか。すべて包み隠さず、あるがままを、神の懐に明け渡しているだろうか。

もしも助けを求めることを避けようとする心の場所があるなら、そこでこそ、叫びの声をあげよと教えられているのかもしれません。自分の弱さを御前に伏せ続けているなら、そこでこそ、最も深刻な仕方で、悪しき誘こころみ惑に遭っているのかもしれません。人間にとって究極の試練は、自分の身に起きている災難以上に、むしろそのただ中で孤立し、対を絶する程の孤独のどん底で、神の愛を見失うことではないでしょうか。しかしまさにそこで、神は私たちの祈りを待っておられる! だから私たちも、そこから「救い出したまえ!」と祈る。

あの「山上の説教」を思い起こします。「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5・3)。はたして私たちは、神の助け無しには生きてゆかれない程に、本当に心貧しく、飢え渇いて生きているだろうか。神の助け無しにも生きてゆけると思える時、実は私たちは、見かけ上の豊かさに惑わされ、安住しているだけではないだろうか。そのように、自らの強さに頼って生きようとする時、私たちはなおも弱さと挫折の内に押し留められている逆説を突き付けられます。しかし受け入れ難き己の弱さを認め、その自分を、ずっと前からご存知でいてくださるお方にすべて明け渡して助けを求める時、私たちは神の強さの中で生きるのです。

主の祈りは讃美?

神の強さの中で生きる。その強さを信じて生きる。そのように、全権を神に徹底して預けて生きるための願いをもってこの祈りは終わります。しかしその心は、主の祈りに最初から貫かれていた心ではなかったでしょうか。この祈りは、「父よ」と呼び始める、否、そう呼ぶことが許されている、その幸いなる真実から始まるものでした。自ら掴み取る幸せではなく、父なる神の全権による祝福として与えられる幸いの中で、この祈りを祈らされる。その恵みの中で、今「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と切願しつつ祈り終える時、実はこの祈りは、神の全権がこれから実現することを願う祈りを越えて、むしろ神の全権が、今まさにここで実現していることを讃えずにはおられない祈りでさえあったことに気づかされるのです。

その意味で、主の祈りは讃美でもあるのです。だから後に初代の教会が、主が教えてくださった本来の祈りに続けて次の言葉を加えたことも頷けます。「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」。これは明らかに、「限りなくあなたのものでありますように」と願う祈りではありません。そうではなく、国と力と栄え、これら三つは、神よ、「限りなくあなたご自身のものだからです」と言い切る。確信する。そして確信しながら、神を讃えるのです。

「神を讃美するとは、全てをその終わりから見ることに他ならない」という深妙な言葉があります。神を讃えるとは、起きている事象の中に目を遣るのではなく、その終わり、つまりはそれが向かう目的地、あるいは神が完成させてくださるその最後の姿から今を見つめることだ、と言うのです。自分にとって好ましい仕方で状況が好転して初めて讃美するのではなく、むしろその状況の成就を、信仰の目で仰ぐところでこそ、神を讃える心が芽生える。讃美などできるはずがないと思い込んでいるまさにその闇の中で、私たちにはなお、神讃美という光の道が開かれるのです。

国と力と栄えとは、限りなくなんじのもの

この一句の基になったのは、歴代誌上第29章10節以下の言葉だと言われます。「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる」。

文字通りイスラエルの代々の歴史を物語るこの書物(上巻)の終わりに、ダビデは自らの王位幕引きにあたり、天にあるもの地にあるものを見渡しながら、主よ、これらはあなたのもので すと、全てを神に帰してその偉大さをほめ讃えます。そして、ここで神のものと告白されたものの内、後の教会は特に「国」と「力」と「栄光」の三つを厳選して、これを主の祈りの最後に加えました。

国と力と栄光。これらはどこか政治的な響きを伴います。世界の現実を顧みるなら、この世の権力者たちは己の領域や資源を拡張しながら、自らの支配基盤である「国」を強くすることに躍起になっています。そのために強大な「力」の象徴である権力を振りかざしては、その正当性と、それによって得る利益を人々に信じ込ませて、自らの「栄光」を身に纏まとおうとします。

初代の教会がこれら三つの言葉を祈りに込める時、しかも結びにこれを加えて祈り始めた時、並々ならぬ状況があったことを思います。かれらの生きていた時代は、まさに我こそ神の子だと自称するローマ皇帝の支配下にあったからです。その下で厳しい迫害を受け、日々の生活と命が脅かされていた。そうした苦難と恐れの中で、しかしひたすら主イエスから教えられた祈りを祈り続ける内に、そのせめぎ合う所で、自分たちの信仰告白とも言える神讃美の言葉が重ねられていったのではないだろうか。否、重ねること無しに、この祈りを真実に祈りきることも、苦境を生き抜くこともできなかったのではないだろうか。見せつけられている現実だけを見ていては、息が切れるばかりだったと思うのです。天の父よ、真の国と力と栄光とは、永遠にあなたのものです!

国とは、神の国。神が造り出す支配。神の愛のご支配が及ぶところです。力とは、神の力。あらゆることが神の御心のままに行われる力のことです。そして栄光とは、神の栄光。神が私たちと共におられ、その愛の支配が現われるところでこそ放たれる光。讃えられるべき、神ご自身の輝きです。そのようにして、この言葉は当時の大迫害下にあっても、目を覚ましながら信仰の闘いを続けるための、キリスト者たちの合言葉となりました。

目を覚ましながら祈り、讃美する。実はこれこそ、キリストに従う全ての者にとって大切な姿であることを、聖書は教えてくれます。主の祈りはルカ福音書11章にも記されていますが、続く12章で、主はまたこのように弟子たちに語られました。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕しもべたちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(35~38節)。

真夜中になっても目を覚まし、腰に帯を締め、ともし火を灯し続ける。腰に帯を締めるとは、決意をもって何かに備え、始めるという意味です。ここでは、給仕をする服装で主人の帰りを待ちつつ、支度するということ。外の暗闇から家の様子を覗く者には不思議な光景に映るかもしれません。それでも家の中の僕たちは、自分たちには確かな主人がいること、そして必ず帰って来て、しかもその主人こそが本当の給仕をしてくださるとの希望を、真のともし火として持つのです。

こうして主の祈りを祈る度に、私たちは、国と力と栄光の真の主権保有者が神であることを幾度も確かめます。そしてこの真実を、繰り返し祈りの内に確かなものとする傍らで、実は、私たちには今も目を覚まして戦うべき相手がいることに気づかされてゆきます。

前後しますが、この最後の神讃美は、先の「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈らずにおられない状況と、心は一つでした。ではあらためて、私たちが解き放たれたいと願う「こころみ(試練・誘惑)」とは何でしょう。私たちは何に支配され、恐れているのでしょうか。次のように問い直すこともできるでしょう。私たちを、神以外の「支配」で縛り、神以外の「力」で恐れさせ、そして神以外の「栄光」によって魅せつけているものは何か。そのように、私たちを虜にしている強敵は何か。

そう問われる時、私たちのこの時代にも、我こそが神の子であるかのように振舞う第二、第三の「ローマ皇帝」たちがいまします。しかも自らの姿は巧みに伏せて忍び寄ってくるため、私たちは危うくその正体を見間違いそうになります。現代のローマ皇帝たち。それは例えば、魅力的な合言葉やキャッチフレーズの陰に隠れています。安定した生活、社会的名声、健康な体…… そうした誰もが望むような〝幸せ〟をちらつかせながら、これらに追従しなければ一生分の傷や劣等感を負うことになるかのように思い込ませるのです。

もちろん、これらが直ちに悪というわけではないでしょう。そのために努力すること、またその結果としての実りが否定されるものでもないでしょう。問題は、それらの幸せを自らの手の中に収めようとするあまり、自分でも止められなくなる程に暴走し、周りとの関係がぎくしゃくしてしまう現実。望んでいた幸せが破れ、失われる時、それに絶望して自暴自棄になってしまう悲劇。しかし、これらを貫いて実はそこで本当に問題となるのは、そんな自分の姿を神が変わらぬ眼差しで見つめ、綻ほころびの中にいるこの私を愛をもって繕い、その存在をまるごと包み込んでいてくださる天来の幸いを見失ったままでいることなのです。ここに、まさしく神讃美の心を失った人間の貧しさと惨めさがあります。起きている全てを、「その終わりから見る」ことができない姿です。

真のアーメンとともに

はたして、私たちは生きている間に幾たび主の祈りを祈るでしょうか。けれどもやがて祈らなくてもよくなる日が来ます。真の主人であるイエス・キリストが再びこの世に来られる、その約束の時です。国と力と栄えとが、本当に神に帰すことが明らかにされる、その終わりの日です。「アーメン」。祈りを結ぶこの言葉は、「まさにその通り」・「然り」を意味します。直前の讃美に対する然り、あるいはそれまで祈ってきた一つ一つの願い、つまり主の祈り全体に対するアーメンでもあるでしょう。しかしこのアーメンは、さらに祈りの内容をも超えて、今この自分が、神の御前で、イエス・キリストの御名によって祈っている、まさにその紛れもない神との交わりの確かさへのアーメンでもある!

「幸せなら手をたたこう」を作詞した木村利人氏が、かつて「幸せじゃない時はどうすればいいんですか?」と無邪気に、そして切実に質問したある少年に対して、次のような主旨で返答されたことを思い起こします。「もちろん、手をたたくことなんてできない時もあるでしょう。でもだからこそ、そんな時にこの歌を思い出し、神様のことを思ってほしい。確かに幸せの基準は人それぞれ。でも人生には、自分の物差しで測る幸せとは違う幸せがあるということもぜひ知ってほしい。自分の手応えを土台とする幸せはいつも揺らぐ。でも神様が約束してくださる幸せは決して崩れることはないし、はるかに素晴らしい。その約束の中にあなたもいるので、あなたがそれを信じて必ずまた手をたたく日が来ることを、私も信じています」。

このように、どこまでも神の約束の中で幸いを確信する時、私たちも手を叩くようにして「アーメン」と告白できます。このアーメンは、人生と祈りが一つとなる満願の祝福に他なりません。この最後になって決まる言葉こそ、全体なのです。そしてこの言葉は、世界の共通語です。祈る数だけ言葉も内容もバラバラですが、やがて一つの終着点に向かう。同じくバラバラに引き裂かれるような苦しみを幾重にも抱える私たちの人生にあっても、この究極の突破口から差し込む光の中で、その光が照らし出す真理の道に手繰り寄せられながら、私たちはこの祈りを新しく紡ぎ続けるのです。喜びの讃美と共に歌うのです。世界の神の民たちと共に。

御自身を否むことだけはできないキリスト(Ⅱテモテ2・13)こそ、「然り」そのもののお方。「アーメン」の根拠は、私たちの確信ではなく、キリストの真実です。覚悟を決めたキリストの献身です。全てに先立つアーメン。全てを包み、決定づけるアーメン。アーメン・アーメン! インマヌエル・アーメン!(完) (日本基督教団 松本東教会牧師)