安心して正気でいること 林 香苗
今年に入ってから、一週間に2〜3回くらいのペースで日記を書いています。
佐久学舎から帰って直後に書いた記録(8月22日)に、
・私って欠けが多いなあ。
・祈りの場、正直でいることが聞かれて、それまでぎゅっと自分で握りしめていたものが解き放たれた気持ちになった。悲しいやうれしいとは別の次元で涙が出た。
・祈りって効くんだなあ。
・私以外の人になろうとしないで大丈夫なんだなあ。
・言葉で表せないことはたくさんある。
とありました。読み返して、佐久学舎でリラックスして過ごしたことを思い返しました。
佐久学舎は、私にとって大切な場所です。
尊敬する先生や友人と生活や学びを分かち合い、語り合う。
自分を大きく見せたり、小さく見せたりしようとは考えなくても大丈夫と心から思える。皿洗いの時間までもが楽しい場所です。今年は新型コロナの影響下でもあり、例年のように皿洗い中に合唱することはありませんでしたし、食事は黙食でした。それでも生活を共にすることの喜びはなお大きくありました。
佐久学舎から約2か月が経過して懐かしく思い出すことは、共同生活はもちろんですが、学びの時間の豊かさもまた心に残っています。
今年はエフェソの信徒への手紙を読み、私は3章を担当しました。8月15日〜20日の日程のうち、17日に発表を終えた後は、自由時間に本を読みつつ考える時間に充てました。
その時間がとても豊かでした。時間が過ぎることを安心して味わうことができました。
佐久学舎の生活は、午前中に掃除、15時に食事当番集合、18時に夕食など、タイムスケジュールに沿ったもので、普段の休日と比較して自由な時間がたくさんあるというわけではありません。むしろ忙しいくらいです。それにもかかわらず、限られた時間の中で本を読み考える時間は、焦ったりせかせかした気持ちにならずに過ごすことができました。
この時間を、本を読み考えるために用いてよい、ほかのことはしなくてよいと思えたから。また、すぐには理解できなくても、気長に学んで大丈夫だと思えたからです。
学ぶことには時間がかかります。長い時間をかけてコツコツと行うことが肝要です。結果が望むように出ないことも多いし、いくら学んでも身につかないように感じることもあります。時間を確保することも容易ではありません。帰宅後や休日に休息をとって心が落ち着いてから、やっと学ぼうという意欲が湧いてきますが、その頃にはまた平日の慌ただしい日常が始まろうとしている。その繰り返しです。
休息を必要とするということは、それだけ疲れや不安が多いということでもあります。不安こそ、私が佐久学舎においてあまり感じないで済んだ、しかし日常では極めて馴染み深い感情です。仕事のことや人生のこと、不安を数え上げるのは簡単です。不安材料はどこにでも見つけられます。ふと考え始めると止まらずに、ぐるぐると考えに落ち込むこともあります。
自らと不安の間に距離を置き、冷静に考えることは容易いことではありません。自分と不安を一体化して考えに陥るか、不安を見ないよにして気を紛らわせるかのいずれかを選択して
しまいがちです。しかし、佐久学舎では、不安との距離を適正に取れたと思います。わからないものはわからないなりに、できないことはできないなりに受け止めて、今の私のままで世界と対峙することができたという感覚を得ました。スケジュールには十分に休憩
時間が設けられていたので、疲れを溜めないでいられたというのはもちろん大きいと思います。しかし、それだけが要因ではありませんでした。祈りは聞かれているのだということを肌で感じました。
これは、極めて貴重な経験でした。「いつも目を覚ましていなさい」という聖句を通じて求められているのはこのような心のありようかな?と思いました。正気でいること、わかった範囲で誠実に生きること。そのような、地味で地道な営みをしても大丈夫だと信じることができました。私は安心してのびのびと過ごすことができました。
エフェソ書6章11節と13節には「神の武具を身に着けなさい」とあります。悪魔に対抗するためです。
人は弱く不安を抱えて生きる存在です。そのままでは悪によって誘惑され、倒されてしまいます。備えが必要です。佐久学舎は、武具の保管場所のようでもあります。この場所で、武具を手に取り、身につける。なかなか自宅まで持っていくことはできませんが……。
しかし、たとえ武具を持って帰ることができなかったとしても、佐久学舎での経験は生活の土台となる大切なものです。日常に戻ると、不安と疲れに圧倒されることは相変わらずあります。それでも、佐久学舎での生活を思い出して心を静めると、一歩進んで二歩下がるような地道な歩みをも、神から見守られていると信じることができるからです。 (日本基督教団 松本東教会出席、会社員)